僕は彼女と一緒に逃げたんだ

 僕はサミュエルに娼館に連れて行かれた。


 女たちの厚化粧を眺めながら、きつい香水を我慢していた。なのに受付を済ませたサミュエルは、僕を置いてさっさと帰った。

 

 ああ、ついに捨てられたんだ。僕はこのとき、本当に絶望してしまった。


 苦しいよりも痛いよりも、見捨てられたことの方がつらかった。

 上機嫌な女店主に引っ張られて、支度途中の女たちの部屋に入れられた。若いのから老婆くらいの歳の女まで、たくさんいた。皆、僕を見てきゃあきゃあ騒いでいた。


 これから僕は、男娼としてここで働かなければいけない。

 それなのに、娼婦たちは無邪気にはしゃいでいるものだから、煩わしくて仕方がなかった。


 そのうち、仕事の時間になった女たちは解散して、それぞれの部屋に戻った。

 女店主も僕に、「誰を選ぶのかは、あんたの好きにしな」と言い残して、出ていった。


 正直、言っている意味がわからなかった。

 たぶん男娼として働く前に、娼婦たちにいろいろと教えてもらえと、そう言う意味なのだろう。


 一人残されたと思い込んでいた僕に、声を掛けてきた娼婦がいた。

 彼女は僕と歳が一番近くて、まだ女になりきれていない貧相な身体付きの少女だった。


 彼女の部屋に案内されて、そこでようやく僕は理解した。

 サミュエルが僕を置いていったのは見捨てたわけじゃない。ここで、僕に子種を残せと、そう言っているのだ。


 驚愕よりも先に怒りが来た。


 あいつはどこまでカトリーヌに拘っているのだろうかと、その面をぶん殴ってやりたくなった。


 けれども、僕は売られた身だ。時が来るまでサミュエルは迎えに来ないし、男娼として働きたくなかった僕は、一番ちいさい少女と夜を過ごした。


 といっても、僕は彼女に指一本触れてなんかいない。

 いや、反対に触れられたのかな。彼女は、世の中で言う母親がするみたいに、僕を抱きしめてくれた。


 それからぽつりぽつりと、僕は身の内を話し出した。彼女は黙ってきいてくれた。

 皆まで話すと、彼女は神妙な顔をしてうつむいていた。僕は失敗したと、そう思った。


 それはそうだろう。ここにいる娼婦たちは、僕なんかよりもずっとつらい経験をしている。借金のカタとしてここに放り込まれたり、そもそも親が娼婦だったりと、それぞれ事情を持った女たちの集団だ。


 だというのに、彼女はこんな僕のために泣いてくれた。


 自分がどうしたいのかと問われて、何も答えられなかった僕に、気の済むまでここにいてもいいと、そう言ってくれた。


 僕は人に甘えてばかりだ。


 サミュエルの次は彼女の世話になった。穀潰しもいいところ。でも、僕は同情で彼女に触れるのは間違っていると思ったし、彼女も無理強いしなかった。


 ただ、おそろしかったのはサミュエルだ。


 三ヶ月くらい経った頃、僕は本当に焦っていた。

 そろそろサミュエルが来るはずだ。期待に応えられなかった僕は、次の女をあてがわれるだろう。だけど、彼女はサミュエルに殺される。


 様子のおかしい僕を見かねて、彼女はある提案をきかせてくれた。


 娼婦たちに支払われる賃金はびっくりするほどに安い。こんなにつらい仕事をつづけているにもかかわらずにもだ。


 彼女はこっそり貯めていた金があると、僕に教えてくれた。


 本当はケルムトに行こうと思っていたけれど、さすがに二人分には足りない。でも、エルムトならば二人分の船賃は出せる、と。そう言ったのだ。


 僕は全力で反対した。

 会ったばかりの他人にそこまでする必要なんてないと、何度も訴えた。彼女の意志は強かった。どのみち、ここを辞めるつもりだったし、僕のことはついでだと笑うのだ。


 殺されるのはごめんだから、と。そう言って、笑った彼女は強い人だった。


 そうして、僕は彼女と一緒に逃げたんだ。イサヴェルから、サミュエルから逃げた。


 彼女とは、エルムトに着いてすぐに港で別れた。


 これ以上の負担を掛けたくはなかったし、彼女ならどこでも生きていけると、そう思った。


 そう、僕は馬鹿だから。彼女みたいに強くもなかった。


 薬が切れるのもそろそろだった。僕は幻覚に悩まされながら、エルムトの雪原をただ北に向かって進んだ。


 僕を逃がしてくれた彼女には申し訳ないけれど、正直僕は疲れ切っていた。

 もうどうでもいいから死んで楽になりたいと、そう思っていた。


 エルムトの冬は、僕の願いを叶えてくれるだろう。


 ここは太陽に嫌われている国だ。だから、一ヶ月ものあいだ姿を見せてくれない太陽よりも、エルムトの人間は月を愛する。


 僕も月を見た。

 いや、見たというのが正しいのかどうか、わからない。なにしろ雪原はすごい吹雪だったし、僕は遭難しかけていた。


 でも、これで黄泉の国ヘルヘイムに行ける。


 イサヴェル生まれの僕は、凍死なんて怖くなかった。とうとう力尽きて倒れた僕は、大人しく瞼を閉じた。


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