軍神イヴァンと白兎のレム〜初恋を拗らせた男の愛が重すぎて受け止めきれない〜

朝倉千冬

第一章 臆病な白兎

追う男と追われる男

 全速力で長い回廊を走っているうちに、曲がり角で誰かを突き飛ばしてしまった。 


 相手は両手一杯に書物やら羊皮紙を抱えていたので、たぶん番人ヘーニルだろう。

 

 いつものレムならばすぐ回れ右をして、散らばった書物たちを拾うのを手伝いながら平謝りする。

 ヘラヘラとした笑みでも、大抵の相手ならば、レムの顔を見て相手は怒るのをやめる。それが男でも女でも、大人でも子どもでも老人でもだ。


 容姿が優れているというのは、こういうときに役に立つ。

 

 白皙はくせきの肌にサラサラの白金の髪、長いまつげの下にはルビーのように輝く大きな瞳がある。

 目が合ってにこっと微笑むだけで、相手は赤面したり目を逸らしたりと反応はさまざま。おまけにときどき女の子に間違えられるけれど、レムの性別は男だし、所謂いわゆる美少年というわけだ。


 しかし、人が騙されるのは、見た目だけではなく中身もそうらしい。


 人たらしだとか八方美人だとか、どう考えても悪口でしかないその言葉をレムに言ったのは、だ。


「待て、レム!」


 そう、いままさにレムを追い掛けてくるあいつだ。


 東翼の袖廊下の辺りで撒いたと思いきや、西翼までしつこく追ってくる体力オバケに、レムは心底うんざりした。最初、レムを追っていたのは三人、そのうち二人はとうに脱落したというのに、諦めるという言葉を知らない男だ。


(ほんっともう、しつこい)


 口のなかで罵りつつも、そういうレムもまた体力オバケであった。

 さすがに息は切れているものの、白皙はくせきの肌には汗ひとつ落ちていない。もっとも、ここが氷と雪と冬の国でなければ、とっくにレムもヘトヘトになっているし、汗だくのぐだぐただ。


 走りつづけているうちに、身体は温まってきた。

 十六歳のレムは、同世代の少年たちに比べて小柄で明らかに線が細かったものの、持久走だけは得意だった。


「レム! 待てと言ってるのに……!」

「待て、と言われて待つやつなんて、いないでしょ」


 うしろからきこえてくる叫び声に、応酬するだけの余裕はあるものの、これではエンドレスだ。こいつは、黄泉の国ヘルヘイムまで追いかねない男である。


 輝ける月の宮殿グリトニルはとてつもなく広い。

 こんなにも入り組んでいるのは巫女を隠すためだとか、レムはそうきいたことがある。氷と雪と冬の国エルムト。そこに住まう人々が敬愛する大切な巫女。


(巫女を守るために、戦う部隊が必要なのは、僕にだってわかるけど)


 レムは観念した。といっても、捕まる覚悟ではなかった。

 ちらと、投げた視線の先に見えるのは花苑だ。その奥へと進めば薔薇園が見えてくる。あそこはさらに迷路みたいだから、そこまでいけばさすがに撒けるはずだ。


 ただし、ここは二階である。

 

 これがもっと寒い時期ならば、敷き詰められた雪がクッション代わりになってくれるだろう。しかし、残念ながら、季節はまもなく夏がはじまる頃だ。ここから飛び降りれば、打撲だぼく捻挫ねんざだけでは済まないかもしれない。


(まあ、ちょっと痛いくらいなら、いいか)

 

 色とりどりの花たちが衝撃を逃がしてくれることを願って、レムは飛び降りた。迷いはなかった。ところが――。


「待てっ、レム!」


 ぎょっとして振り返ったものの、もう遅かった。

 

 レムは二階から飛び降りていたし、相手もそれにつづくとは思わなかったのだ。その上、空中でレムの身体は捕まえられていた。そう、レムは完全に見誤っていたのだ。黄泉の国ヘルヘイムまで追い掛けてくるような男が、レムを逃がすはずがないことに。


「いったた……。もう、馬鹿なの? イヴァン」


 レムは追い掛けてきた男――イヴァンもろとも花壇に落ちた。


「馬鹿は、お前だろう。レム」


 衝撃に備えて身体を丸めようとしていたところを、イヴァンにとっ捕まった。

 逃げる間もなく二人仲良く転落というわけで、レムは下敷きとなったイヴァンを押しのける。


「はあ、もう。君って、ほんと考えなしだよね」

「お前に言われたくないぞ、レム」


 身体のあちこちが痛いけれども、怪我はしていなさそうだ。犠牲になった花たちと、イヴァンのおかげだろう。レムは心のなかでペロッと舌を出す。イヴァンの頭はぼさぼさで、黒髪には花が絡まっている。


「まったく、お前というやつは。だいたい、なんで逃げた?」

「それは君が追い掛けてくるからだろ」

「お前が逃げるから、追ったんだ!」


 やいのやいの言っているうちに、なんだか可笑しくなってレムはプッと吹き出した。

 

 小柄で子どもみたいな体躯たいくのレムに対して、二つ年上のイヴァンはすらっとした長身だ。

 黒髪とアイスブルーの瞳、すっと伸びた目鼻立ちといい、イヴァンの容姿もまた美しかった。妙齢みょうれいの娘たちにも、年配の女性たちにもきゃあきゃあ言われるくらいに、イヴァンはとにかくモテる。


 それなのに、いまのイヴァンときたら。

 髪はボサボサで、軍神テュールの軍服も皺くちゃなくせに、顔だけは真面目で説教してくるものだから、レムはすっかり逃げる気をなくしてしまった。


「ちゃんと、軍神テュールの訓練に出るんだな?」

「はいはい、わかったから。早くどいて」


 イヴァンほどではなくとも、レムの格好もそこそこひどかった。

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