あいつは裏切り者だ

 月の巫女シグ・ルーナの声に従い、イヴァンは輝ける月の宮殿グリトニルへと戻った。違和感に気付いたのはすぐだ。

 

(なんだ……? 妙な感じがする)


 形容のできない不快感があった。イヴァンの肌が粟立あわだっているのも、そのせいだろう。

 

 イヴァンは視覚や聴覚といった身体感覚に長けていたものの、それ以外のいわゆる第六感というものには優れていなかった。こういうのは、レムの方がイヴァンよりもずっと働く。


 半年くらい前に、輝ける月の宮殿グリトニルで窃盗事件があった。

 盗まれたのは備蓄されている食料と防寒具で、それほど多い数ではなくとも、ここで悪事を働いた不届き者を放置しておくほど、番人ヘーニルは甘くなかった。


 イヴァンたち軍神テュールは総出となって、犯人捜しに繰り出した。

 冬至の祭りユール夏至の祭りユハンヌスと異なり、こんななにもない時期に、外部の人間が輝ける月の宮殿グリトニルに出入りするのは稀である。


 となれば内部の人間を疑うところ、イヴァンたちは敷地内の人間をしらみ潰しに調べてみたが、何の手掛かりもなく頭を抱えた。


 そんな折りに、イヴァンに助言したのはレムだった。


 冬の前に、エルムトに移住した者たちを調べてみろと言うのだ。

 怪訝けげんに思いながらも、イヴァンはレムに従った。事件が解決したのはその三日後だった。


 氷と雪と冬の国エルムトは、本土のイサヴェルよりもずっと冬が厳しく、寒い日がつづく。


 本土から来た者は、エルムトの寒さをわかっていなかったらしい。

 餓えも凍死も、どちらもエルムトでは日常だった。そうならないための蓄えを奪ったのは生きるため。とはいえ、エルムトにて窃盗は重罪である。

 

 厳罰に処するところを、月の巫女シグ・ルーナが差し出口を挟んで、それ以上の大事にはならなかった。


(レムは、本土の生まれだからわかったのだろう。でも、それだけじゃない。あいつは、輝ける月の宮殿グリトニルに忍び込んだ不審者に気付いていた)


 レムは人の気配とか、そういうものにもすぐに気付く。

 ミカルはそれを臆病な白兎の習性だと揶揄やゆしていたが、それもある意味で正しいのかもしれない。


 はっとして、イヴァンはかぶりを振った。


(俺はまた、そうやってレムのことばかりを)


 自分でもこれは重症だと、イヴァンは思った。だが、いまはそんな場合ではない。勘の鈍いイヴァンでさえも、この異変には気付いたのだ。


(なにかが起こっている……? となれば、まず隊長を探すべきか)


 マルティンは一人娘のアストリッドに会いたがっていた。もう自宅に帰ってしまったのだろうか。夏至の祭りユハンヌスが終われば、皆それぞれ休暇をもらえる。


 いやそれより、ここからなら軍神テュールの寝所の方が近い。

 皆を起こす方が手っ取り早いと、考えながら先を急いでいたイヴァンは急に足を止めた。偶然通りかかったのは医務室だった。


(レムはもうここにはいない。だが……)


 ノックをする間も惜しんで、いきなり扉を開けた。闖入者ちんにゅうしゃに驚きもせず、机に向かっていたオリヴァーがこちらを見た。


「なんだ、イヴァンか。急患か?」

「いえ……、そうではなく」


 オリヴァーからは煙草のにおいがした。あれだけレムに言われたくせに、まだ懲りもせずに医務室で煙草を吸っているらしい。


 つい先日、イヴァンはオリヴァーに説教をされたばかりだ。

 しかしそれでなくとも、イヴァンはこの軍医がどうにも苦手で、なにから説明しようかとして言葉に詰まった。


「レムはどうした?」


 気まずさから外していた視線を、またオリヴァーへと戻す。

 

「あいつは、もう」

「なんだ止めなかったのか? ……使えないやつだな」


 オリヴァーに舌打ちされたイヴァンは拳を握りしめる。止めなかったわけではない。止められなかったのだ。


(いや、どっちもおなじだ。俺は、レムになにも言えなかったのだから)


「すごい嵐だな」


 先を急ぐあまりに、オリヴァーに言われるまで気付かなかった。凄まじい風が鎧戸をたたいているし、雷を伴った雨まではじまった。


「お前は軍神テュールだろうが。月の巫女シグ・ルーナの傍にいなくてもいいのか?」

「いや、エリサが俺に戻るようにと……」

「ふん。健気な女だな」

 

 いかにもこの会話が退屈そうに、オリヴァーは煙草に火を付けた。


「まあ、いい。起きててやるから、急患が出たら知らせろ」


 はじめイヴァンはここに寄ったのは間違いだと、そう思っていた。だが、そうでもなさそうだ。オリヴァーも気付いている。


 イヴァンは医務室を出ると、今度は自分の勘に頼ることにしてみた。

 

 いまの輝ける月の宮殿グリトニルは、本土イサヴェルの人間だらけだ。疑い出せばキリがなくなる。そして、こうしたときに巫女が狙われる。先代の月の巫女シグ・ルーナは何度も襲われて、巫女を守って軍神テュールたちは死んでいった。

 

(やはり、隊長のところに行こう。マルティン隊長なら、もう異変に気が付いているかもしれない)


 マルティンが私室として使っているのは、軍神テュールの寝所とはべつにある。有事のときにすぐ動けるためだ。


 しかし、イヴァンはマルティンの部屋へとたどり着く前に足を止めた。人の叫び声がきこえる。そして同時に血のにおいを感じた。


「アウリス……? それに、ミカルか!?」


 どうやら叫んでいたのはアウリスのようだった。イヴァンは二人の近くに行って、ようやく気付いた。血のにおいの正体はミカルからだ。


「ミカルがやられた……! レムを追えっ!」


 普段の慇懃無礼いんぎんぶれいなアウリスとは思えないほど、切迫した声だった。それも無理もない。アウリスの腕のなかで、ぐったりとするミカルは血だらけだった。


「落ち着け、アウリス。いったい、何があった?」

「ミカルを斬ったのはレムだ。あいつは、裏切り者だ!」


 そんなに叫べばミカルの傷に障る。しかし、イヴァンの声でアウリスが落ち着くどころか、逆効果だろう。


「なにしてる……? 早く、行けっ! それとも、お前も裏切るつもりか、イヴァン」


 ぞっとするほど低く冷たい声でアウリスは言った。それきりアウリスはイヴァンに構わず、髪を振り乱しながら弟の名を呼びつづけた。


(なにが、起こって……)


 あまりの剣幕にイヴァンは後退りしたものの、すぐ自分を取り戻した。

 

 いや、まだ頭は混乱している。ミカルは何者かに襲われた。アウリスはそれがレムだと訴える。


 意味がわからないと、イヴァンは下唇に歯を立てた。

 輝ける月の宮殿グリトニルには暗殺者が多数潜んでいるのだろうか。それがレムだというのが、イヴァンには到底信じられずにいる。


 そのうち、騒ぎをききつけた他の軍神テュールたちとも合流した。

 しかし、どれだけ輝ける月の宮殿グリトニル内を探しても、山狩りしても、エルムトでレムの姿を見つけることはできなかった。

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