嵐がくる

「ありがとう、イヴァン」


 別れの言葉を残して、レムは護衛の男と去った。


 しばらく茫然自失としていたのだろう。

 正気に戻ってもイヴァンは輝ける月の宮殿グリトニルをうろうろとし、それからいつのまにか自室へと戻っていた。


(なんだよ、それ)


 別れの挨拶、でもレムは謝罪ばかりを口にしていた。

 べつに恩を売るために、あれこれ世話を焼いたのではない。それなのに、レムはイヴァンになにも返せなかったと言う。


(俺はレムに感謝してほしいわけでも、謝ってほしいわけでもない。俺はただ……)


 イヴァンはかぶりを振った。

 ちょっと前にオリヴァーに忠告されたのを思い出す。あまりレムに関わるなと。あれは、これ以上深入りするなという、オリヴァーなりのやさしさだったのかもしれない。


(だとしても、俺は……)


 ベッドに突っ伏して、枕に顔を埋めているうちに眠ってしまったらしい。鎧戸をたたく風の音でイヴァンは目を覚ました。


(しまった。要人の護衛をすっぽかしてしまった)


 ぐしゃぐしゃになった黒髪を掻きあげながら、イヴァンはため息を吐く。

 

 短躯たんくで出っ歯の要人に、散々子ども扱いされたイヴァンだ。

 それでも軍神テュールの任務は忠実にこなさなければならないと、歯を食いしばって耐えていたのに、とうとう投げ出してしまった。


(こんなんじゃ、レムのことをどうこう言えないな)


 ちょっと頭を冷やそうと、イヴァンは部屋を出た。


 いまが昼か夜かの判断が付かないほど明るいのは、夏至のあいだは太陽が沈まないからだ。

 とはいえ、輝ける月の宮殿グリトニルは静まり返っているので、いまは夜の時間なのだろう。


 夏至の祭りユハンヌスも、もう終わりだ。さすがに本土イサヴェルから来た要人たちも、酒宴で騒いでいないらしい。


 小台所に行って水を飲んだ。すこしは落ち着いたかと思いきや、でもまだ頭のなかはぐちゃぐちゃだった。


 誰かに話をきいてほしい。


 そう思って、イヴァンは回廊を歩き出す。隊長のマルティン、軍医のオリヴァー、同僚のアウリスやミカル。その誰でもないような気がして、イヴァンは一人彷徨さまよう。


 こういうときに、しっかりイヴァンを叱ってくれるのが、妹のエリサだ。

 幼くして母を亡くした二人だったが、番人ヘーニルの父親もいたし、二人が育った屋敷には、たくさんの使用人もいた。


 イヴァンが軍神ヘーニルとなり、エリサが月の巫女シグ・ルーナになってからは、一度もあそこには帰っていない。父親が病死したのもあるが、もうあそこは自分の家ではないような、そんな気がしたのだ。


(そういえば、父上はエリサを結婚させようとしていたが、ユハとともに生きると言いきったエリサに、反対はしなかったな)


 番人ヘーニルの娘であるエリサ、辺境伯の十番目の娘であるユハ。


 良家の娘らしく、妙齢みょうれいとなれば、それなりの家に嫁ぐのが慣わしだ。

 しかし、エリサは月の巫女シグ・ルーナに選ばれてしまった。それも運命だったのだろうか。エリサはユハを本当に愛していたから、巫女の眷属けんぞくとして、ユハを選んだのだ。


(でも、それでよかったのかもしれない。エリサとユハは、それで)

  

 青い花のにおいがして、イヴァンは顔をあげた。


 過去を懐かしんでいるうちに、祈りの塔へとたどり着いてしまった。

 水晶クリスタルでできた神秘的な塔の周りには、たくさんの青い花が咲いている。その独特な甘いにおいが好きだと言ったのは、妹のエリサともう一人。


「あら? どうしたの、兄さん。こんな時間に」


 声にイヴァンはぎょっとした。


「エリサ……!? 駄目じゃないか、塔から出てきたら」


 夜のこの時間ならば、月の巫女シグ・ルーナであるエリサは祈りの時間だ。


「ちょっとした散歩よ。だいたい、月も出ていないのに、祈っていても仕方がないじゃない」



 番人ヘーニルたちがきいたら卒倒しそうな台詞を、エリサは平気で吐く。この調子なら、エリサは月が見える夜でも、塔から抜け出しているのかもしれない。

 

「しかし、そうは言ってもな。それに、危ないだろう?」

「だいじょうぶよ、イヴァン。ユハがいるもの」


 エリサの視線の先には大きな獣がいる。

 銀の狼はユハだ。巫女の眷属であるユハは、夜間のあいだは狼の姿に顕現けんげんして、彼女を守っている。


「それより、兄さん。戻った方がいいわ。嵐がくる」


 エリサは空を見つめた。

 夏至の祭りユハンヌスの期間はいつも天候が安定しているが、巫女の言葉はたしかだ。嵐だけではない。何かが起きるのだと、エリサはほのめかしているのだ。


「わかった、俺はすぐ戻る。エリサも塔に……。ユハ、エリサを頼む」


 エリサに寄り添っていた獣は、イヴァンをじっと見つめていた。

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