これが最後だから

(まったくあいつは。なに考えているんだ!)


 怒り心頭のイヴァンは、要人の警護の仕事も忘れていた。


 いや、マルティンに会う前は覚えていたのだ。最後くらいレムにも、ちゃんと仕事をさせようと、そう思って迎えに行くつもりだった。


 それなのに、レムは与えられた任務からも逃げてばかりだ。ミカルの言うように、あれは仮病だったのではないかと疑いたくもなってくる。


(いや、でもあのときのレムは本当に具合が悪そうだった。俺が信じてやらないでどうする)


 白兎のレムと称されるくらいに、レムはデリケートで弱いところがある。イヴァンみたいに剛健ごうけんな男子ばかりではないのだ。

 

 回廊を急ぎ足で進んで行く。イヴァンは祈りの塔へとたどり着く前に、覚えのある後ろ姿を見つけた。


「レム!」


 白金の髪の少年が振り向いた。


「イヴァン……? どうしたの? そんなに急いで」

「お前を、探していたんだよ」

「僕を?」


 きょとんとするレムに対して、イヴァンは言いたいことが山ほどあった。まずは呼吸を大きく吸って落ち着かせる。怒ってはいけない。そう、自分に言いきかせて。


「お前、エリサのところに行くつもりか?」

「うん、そうだよ。ちょっとね、大事な用事があって」

「大事な用事って……、要人の警護は」

「その話もするつもり。隊長にはもう話したけど、月の巫女シグ・ルーナにはちゃんと時間を取って話してきなさいって、隊長が」

 

 マルティンはなにかを言いかけていたものの、きかずに飛び出したのはイヴァンだった。


「これが最後だから、月の巫女シグ・ルーナにはちゃんと挨拶しないとね」

「最後って……?」

「うん。おわかれを言わないといけないんだ」

「お別れ? レム、お前なに言って」

「どうした? レム」


 イヴァンとレムは同時に振り返った。そこには、あの美しい男がいた。


「これは副隊長殿。こんなところで、どうしたのです?」


 イヴァンはとっさに声が出なかった。相手の美しさに気圧けおされていたのだ。本土イサヴェルの要人の護衛。痩躯そうくの長身の男。金髪の下からのぞくアメジストの目が、イヴァンを射貫いている。


「彼は、イヴァンは月の巫女シグ・ルーナの兄さんなんだよ。それで」

「ああ、そういうことですか。こんなに人の多い時期では、妹君が心配なのはわかります」


 それに、声。

 レムに対する声音とイヴァンに向けた声はまるでちがう。


(いや、そんなことはどうだっていい。重要なのは)


「あなたは、なぜここに?」

「それは、月の巫女シグ・ルーナに会えるかと思ったんだよね? でも、だめだよ。巫女に会うには番人ヘーニルの許可が要る」

「レム、いいから」

 

 どうしてレムと一緒にいるのか。イヴァンはそうきいている。

 レムは親しくなった相手でもすぐに敬語を外さない。それなのに、レムの物言いは、イヴァンやオリヴァーに対するみたいに親密だ。


「ふふ、なるほど。副隊長殿はとても親切なお方だ。お前も世話になったのだろう? レム」

「そうだね……。イヴァンは、やさしかったよ」


 イヴァンは動揺してしまっていた。だからレムの声が震えていたことにも、気付かなかった。


「レム、世話になった恩人だ。彼にもちゃんと挨拶をしなさい」

「うん、そうだね。そうするつもり、だったんだ……」

「レム……?」


 イヴァンの心臓が早鐘を打っている。別れ、挨拶、恩人。聞きたくない言葉が耳を素通りしていく。


「僕が、孤児だってことは、話したことがあるよね?」

「あ、ああ……」

「イサヴェルの教会で十歳まで育った。そこから四年間は、彼が……面倒を見てくれた」


 イヴァンはそれとなく護衛の男を見た。眉目秀麗びもくしゅうれいなその男はイヴァンに向けて微笑んでいたが、その目は笑ってはいなかった。


「それから訳あって……、僕はエルムトに来たんだけど……。でも、こうしてまた、彼は僕を迎えに来てくれた」

「迎えにって……」


 信じられない気持ちでいっぱいになった。

 では、護衛のこの男が、輝ける月の宮殿グリトニルに来たのは、偶然ではなかったのだろうか。


「たまたまですよ。しかし、こうしてレムにまた会えたのも、神の導きというものでしょう。まさか、こんなところで軍神テュールになっているなど、思いもしませんでしたからね」


 イヴァンの心を読んだみたいに、護衛の男は言う。 

 

「じゃあ、お前は……」

「ごめんね、イヴァン。たくさん世話になったのに。なにひとつ、返せなくて」


 泣いているのかと思うくらいに、レムの声は弱々しかった。


(いや、レムは泣かない。いつも逃げているようでそうじゃない。痛いこともつらいことも、ぜんぶ我慢する。それに……、そんなことはどうだっていいのに)


 ごめんね、と。繰り返すレムに、イヴァンはそれ以上なにも言えなかった。

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