第39話 悪者④
「もう少しだけ、話をしないか?」
出ていく京華の背中を目で追っていると、明田は言った。
京華と同じく、気分が悪かった。俺だって今すぐこの場からいなくなりたい。目の前にいる大人が、俺たちの味方ではないと知ったのだから。
「私も間違った事を言っている自覚はあるんだ。だけど、世の中は複雑で、道徳の授業のように綺麗事だけでは解決出来ない問題もある」
俺を捉えた双眸がそうだろう、と言っていた。そんなことはわかっていた。それでも、一番簡単な手段で解決しようとする無責任な言葉を、教師の口から聞きたくなかった。
期待外れな言葉は胸の奥に深く沈み、身体が重くなったように感じた。その言葉は胸の奥でわだかまり、京華の抱える問題を俺じゃなくても誰かが何とかしてくれると、どこか他人任せに期待していた自分を悔いた。
「正しさなんてのは見方が変わればいくらでも変わる。どんなに藤堂が強くて正しかったとしても、多数の人間が間違っていると思えばそれが正しさになってしまう。それが人間というものだ」
「⋯⋯正しいなら、いいじゃないですか」
要所要所に京華を肯定するよう言葉を織り交ぜながら、明田は煙に巻くような言い回しをした。話を複雑にさせることで理解を難しくして、最終的には説き伏せようとする魂胆が透けていて面白くなかった。
言いたいことは単純なはずだ。「受け入れて黙っていろ」と。そう言えばいい。俺は反抗の形として沈黙を貫くつもりだったが、遂に我慢できなくなり、気がつけば返事をしていた。
「そうかもしれない。ただ、それはあくまでお前たちの視点からの話だ」
「⋯⋯俺たちの視点?」
「そうだな、言い換えるなら、お前たちの価値観とでも言おうか」
価値観。俺たちの考えなんて、明田からすれば沢山ある意見のうちの一つに過ぎないと言いたいのだろうか。
考えているうちに返事が途切れたこと。それを明田は俺の心が揺らいだと感じたのか、大人の薄気味悪い笑みを浮かべた。
「教育者として子供を見ているとな、子供の世界の残酷さに気付かされる。子供は人間の本性に正直だ。異質なものを排除しようとする力が強く働くんだ。力の弱い子だったり、変わっている子、そしてお前たちのような自分に芯があり孤高の強さを持つ子供。こういった子だちは標的にされやすい——」
明田は演説する政治家ような態度で自身の教育論を説いた。言ってることは決して間違っていない。だけど俺はどうしても納得しようとは思えなかった。
「そうかもしれません。だけど、俺は京華が間違ってるとは思わない」
明田は目を丸くして俺を見た。
自分でも、こんな言葉が自分の口から出るなんて思っていなかった。目にかかる前髪が煩わしくて、指でかき上げる。一瞬の沈黙が気まずくて、俺はさらに言葉を重ねた。
「確かに、間違っていることを飲み込んで受け入れることも、時にはあるかもしれません。だけど、それを仕方ないと諦めて、京華に自分を押し殺すことを強要する必要が本当にあるのでしょうか?」
「やりたい事があるのだろ? お前たちなら、そんなに難しい事ではないはずだ。聞き分けてくれ」
明田は考えるように腕を組むと自身の短く整えられた頭をがしがしと掻いた。聞こえる呼吸音は何かを躊躇っているようで、俺は不安になる。
「これでも私は譲歩してるのだよ」
明田はそれだけ言うと俺の返答を待った。当然、続きが気になる。何か嫌な道に誘導された。それに気づいていながら、俺は聞かずにはいられなかった。
「⋯⋯どういう意味ですか?」
「出来れば言いたくなかったんだがな。……お前らの主張は、自分たちが正しくて道理に違えた事はしていない。そうだな」
俺は頷く。うっすらと暖房が効いているのか、手に嫌な汗が浮かんだ。
「さて、道徳の問題だ。藤堂がこれまで他の生徒にしてきた振る舞い。それは正しいと言えるか?」
「⋯⋯」
「成績がいいからと、ご両親に出してもらった学費で、授業中に堂々と眠る。親御さんや教員の心象は?」
俺は答えられなかった。答えられるはずがない。
「はっきり言おう。お前たちの主張は子供のわがままだ。世界が自分たちに都合よく回ると漠然と信じて、意志を声に出せば物事が思い通りになると――。自立しているつもりかもしれないが、やってることは腹が空いたから泣きわめく赤ん坊と同じだ。それはまるで、太陽が自らの力で空を登っていると勘違いしているような愚かしい発想だ」
明田の言葉は、どんな物理的な攻撃よりも重く、鋭かった。苦し紛れに言葉を探したが、動揺した頭では何も浮かばなかった。
「理解はできますよ。でも、俺は仕方ないと納得するつもりはありません。京華はなにも間違っていない」
完敗だった。反論の一つ、言語化出来なくて、俺はみっともなく逃げ出すしかなかった。足元に置いたカバンを乱暴に持ち上げると、机の脚に京華から貰ったキーホルダーが引っかかって、千切れて落ちた。明田の言う通り、俺は子供だった。貰ったキーホルダーを拾い上げる事よりも、虚勢を張り、格好つけて部屋から出ていくことを優先した。
いったい俺は、今どんな顔をしているのだろう。怒った表情だろうか、それとも泣き出しそうな顔をしているのだろうか。わからない。ただ、自分の顔が熱くなっている事だけはわかった。
部屋を出ていく俺に、明田は何も言わなかった。引き戸を力強く閉めることが、俺に出来た精一杯の抵抗だった。
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