第24話 暗礁②
「ねえ、京華。聞いてたけどあなた本当にちゃんと本番できるの?」
「うぐっ」
箸が止まる。今まさに咀嚼を終えて喉を通りかけていたであろう白米が喉の途中でつっかえたのか京華は咽た。
「……聞いてたの? 扉の向こうからは聞こえないはずなのに」
京華は訝しげに眉をひそめる。
確かに、あの部屋の防音性は十分高いのは先ほど確認していた。もし仮に、扉に耳を当てていたとしても、その内容がはっきりとわかるほど音が聞き取れるとは思えなかった。
話が逸れてしまうが、京華の母が扉に耳を当てる姿が容易に想像出来てしまう。この家に通うようになり会話を通して、意外とお茶目でいたずら好きな一面を持っている事を知ったから。
「京華のお母さんなら、娘の演奏する姿を見るために扉の隙間からでも入ってきそうですね」
「酷いわりんごちゃん。人をゴキブリみたいに」
りんごの冗談をしっかりと拾って京華の母は嬉しそうに笑った。
「まさか私たちが出入りする隙に中に侵入したってこと?」
それも想像出来てしまうのが面白い。きっとぬるりと部屋に忍び込み、そしてピアノの陰に隠れているのだ。
「もう、誠人くんも笑わないでよ」
「じゃあ、どういうことなの?」
京華は机にバンッと音を立てて手を置いた。それはさながら取り調べをする刑事のようだった。しばしの沈黙。京華の母は挑戦的で挑発的に口角を上げている。真剣な眼差しの京華とそれを含みのある笑みで対抗する母。静けさのなか、母娘の視線はバチバチと音を立てて交差する。
「ふふん。まだまだ京華も家の事を理解しきれてないわね」
「なにっ?」
突然始まる三文芝居。すっかり役になりきる。京華は立派な役者だった。
「うちって庭が広いじゃない? 家の中から聞こえていなくても意外と窓の外からは聞こえてくるのよ」
「……まさか」
京華は目を見開くと前のめりに聞き耳を立てる。
「そう、だから私はずっと窓の外から聞いていたのよ!」
大仰に広げた腕は隣に座るりんごの頭上を危うく掠め、高々と言い放った言葉はディレイがかかったように鼓膜の奥で残響した。
「そういえば、最近よく庭の掃除してましたね」
頭上の腕に当たらぬように身を屈めながらりんごが言う。そう言われてみれば窓の外を見ると度々箒を持った京華の母の姿があった気がする。
「みんなかっこよかったわよー。私、学園祭が今から楽しみだもの」
そのにこにことした満面の笑みを見て、自分たちの演奏を楽しみにしている人がいる。それに我ながらちょろいなと思いつつ、頑張ろうかなと僅かな向上心が芽生えた。
「で、なんで盗み聞きなんてしたの?」
思い出したように、くちびるを尖らせて京華はいまだ不満そうな顔をしていた。きっと自分の悩みをストレートに指摘されたからだろう。
「娘の頑張る姿って応援したくなるのよ。聞いていて思ったの、ベースの子を探すのもありなんじゃないかって」
「私じゃ力不足ってこと?」
ぴくりと京華の眉が歪む。
「ちがうわ。歌が上手なんだからそれに専念するのも一つの手なんじゃないかって」
京華の母の眼差しは冗談を言うときの目ではなかった。それでも、俺は京華が興奮して手に負えなくなるのではと心配したが、それは杞憂で京華は意外にも自分の母親の言葉に耳を傾けている。
「ほら、誠人くんとか学校でも人気者でしょ。あなたからお願いするのが難しくても誠人くんと一緒になら大丈夫かもよ」
ね? と京華の母は俺の顔を見る。なんか俺の評価が高くて気恥ずかしい。対面のりんごは可笑しそうに笑いを堪えている。
「むりむり。誠人に友達なんていないし」
そんな間髪入れずに否定しなくてもいいのでは? まぁ事実なんだけど。
「えー。絶対人気あると思うんだけどなー」
「ないない。学園祭の準備だって始まってるのに、誠人ったら役割なんてなくていつもどこかに姿を消しちゃうんだよ」
それはお前もだろうが……。そう言ってやりたかったが京華の母の俺を哀れむような視線に胸が痛くなり、文句を言う気も起きなかった。
「あれ? そういえば先輩たちってどんな出し物するんですか?」
「いや……。しらないけど」
「えぇ⁉ そんなことってあります?」
「……さすがだわ。ここまで来てまだ知らない奴がいたのかよ。いつも寝てる振りをしてるのかと思ってたけど本当に寝ていたのか」
「先輩と京華は同じクラスなんですよね。いったい何やるんですか?」
りんごが再度問い直すと京華は喉に言葉がつっかえたように唸り、目を逸らす。
「——メ、メイド喫茶」
きゃーと黄色い声を出してりんごと京華の母は互いの指を絡めて興奮する。京華は照れを隠すように鼻の頭を指で掻いている。
「先輩! 私絶対遊びに行きます。マジの、アブソリュートで」
「りんごちゃん一緒に行きましょ。私も京華のメイド服の姿が見てみたいわ」
きゃっきゃと盛り上がる二人を他所に、俺は京華に顔を近づけて耳元に話しかける。
「うちのクラス、本当にそんなべたな出し物なの?」
「よく今日まで知らないでいたな。決定した時は相当クラスが盛り上がってたよ」
「……どうでもいいし」
「誠人らしいわ」
歯並びの良い綺麗な白色の歯が見せて京華はけらけらと笑う。
「俺たちにはバンドがある。それだけでいいじゃねぇか」
京華は一度驚いたような表情を見せると俺を上から下まで眺め、視線は俺の眼球に回帰する。
「へぇ。意外とやる気じゃん」
「なぁ、ベース弾けるやつ一人だけ知ってるぜ。聞きたいか?」
京華の動きが一瞬止まったように見えた。一拍おいて、にやついていた顔が引き締まり、唾液を飲み込んだのか首の筋肉が収縮した。
ここまで言って、俺は続きを言おうか躊躇する。少しむかついたからからかってやろう。そんな軽い気持ちだった。
メンバーを追加する。上手く伝えなければ、今までの京華の努力を否定することになってしまうから。だけどきっと言葉の下手な俺はそれを上手に伝えられない。
俺の目を覗く京華の瞳は不安に震えていた。どうして——どうしてそんな顔をさせてしまったのだろう。
「だれなの?」
「——岩沢。岩沢美沙希」
京華の瞳が明らかに揺らいだ。そして無言のまま椅子の足と床を乱暴に擦らせて立ち上がる。耳の痛くなるような不快な音がした。
「ちょっと京華。どこにいくの?」
驚いた二人は会話を止めると、異変に気が付いて声をかける。だけど京華は返答せず部屋を後にした。
俺はただそれを黙って見ていることしか出来なかった。
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