第40話 悪者⑤
乱暴な手つきでスニーカーを取り出して、靴を履き替える。自然と早歩きになるのは、学校にいたくない気持ちか、それともみっともなく、自身が子供である証明をして、おめおめと逃げ出してきた姿を他の人間に見せたくないからか。
オレンジ色の夕焼け空が、俺をやけに感傷的にさせる。天が青春を祝福するように、グラウンドを包み込み、たった一度の大切な試合のために練習する野球部の姿が、正しいと言わんばかりに彼らの流れる汗を輝かせている。一方で惨めな俺には、彼らの巻き上げた土埃が目にしみ、強烈な西日の光が俺の心まで焼き尽くすようなエネルギーを注いでいた。
ライブの成功は、京華を日向の世界に帰すためのひとつの手段に過ぎないと考えていた。現状、初めの頃に比べて京華への嫌がらせは減っている。それはきっと、大人たちが大人のやり方で裏から京華の問題に対処してくれていて、解決は時間の問題だろうと期待していた。京華を日向の世界に戻すための道はすでに作られていて、だからこそ俺ができることは、ライブを通じて彼女の背中を押してあげることだと信じていた。
帰りの電車はやけに空いていた。空いている席に座る気分ではなく、俺はつり革を持って立つことを選んだ。走行中の電車の音、女子学生たちが話す今日の面白かったこと、老人が文庫本を捲る音――苛立つ俺には全てが雑音にしか聞こえなかった。連結部の扉は古いのか、少しだけ空いてゆらゆら揺れ、金属がギシギシと擦れ合う音が漏れている。その不協和音とも取れる不安な響きが、どこか自分たちのようだと思った。音楽的に言えば、不協和音の後には協和音が続くことが期待できる。ならば、この先の俺たちは――と、期待している自分を自嘲気味に笑った。
日が落ちるのが早くなってきた。立花三条駅に到着した頃には、空の九割九分が濃い藍色に染まり、雲は土の混ざった残雪のように、その美しい白さを失っていた。制服のポケットに手を突っ込むと、自然と背中が丸くなる。
京華はもう着いているだろうか。数時間で色々なことがあったせいか、精神的に疲れて瞼が重い。途中のコンビニでコーヒーでも買おうと思った。
歩いているうちに、藍色の空はその姿を隠すように宇宙の色に溶け込み、辺りはすっかり暗くなった。閑静な住宅街ということもあり、煌々と輝く中心街と比べると、明かりの量は少ない。かといって薄暗くて不気味というわけではない。目を凝らすと、空にぽつぽつと星が見える。そんな美しい夜の住宅街の中、ひときわ眩しくコンビニがその存在を主張していた。周囲が薄暗いせいか、店の光は目の前の道まで届いており、まだ遠くを歩いている俺にも、そこにあるのだとわかった。
会計を済ませ、レシートに噛んでいたチューインガムを吐き出して包み、ゴミ箱に捨てた。自動ドアが開くと、気圧差で冷たい空気が正面からぶつかり、これでいよいよコートが必要だと思った。店内は薄っすらと暖房が効いていたのだろう。よく考えずに缶の冷たいコーヒーを買ったことを後悔した。これからギターを弾くのに、冷たい缶で感覚が鈍ってはたまらないと、一口飲んでから尻のポケットに突っ込んだ。
「腹壊しちゃうよ」
聞きなれた声だ。
目を向けると、駐車場の片隅に京華がひとり座っているのが見えた。ドーナツ型の車止めに腰掛けていた。夜風が彼女の髪を揺らし、手に持つコーヒーから立ち上る湯気が、冷えた空気の中でゆっくりと消えていく。夜の空気に包まれながら、その顔はどこか遠くを見つめるような寂しさが滲んでいて、まるで周りの世界が遠く感じられるかのようだった。
頭上の誘蛾灯は静かに灯る。夏が終わり、その役目を終えた光だけが彼女を照らしていた。明かりは、京華の顔に影を落とし、まるでこの世界に彼女しかいないような孤独感と寂しさを演出していた。
「お前こそ、そんなところにいたら風邪ひいちまうぞ」
「心配してくれるんだ。私は大丈夫。こう見えて意外と身体が丈夫だから」
「お前を心配してるわけじゃねえよ。声が出なくなったらライブで格好つかないだろ」
「あはは。誠人らしい反応だね」
無理に笑う京華を見て、俺は心の中で葛藤していた。彼女の笑顔が痛々しくて、どうしても目を背けることができなかった。心の中で「何かできることはないか?」と問いかけるが、言い出せない自分がもどかしい。ただ見ているだけで、彼女の痛みが胸を締め付け、どうしていいのか分からなかった。素直になれない自分が、京華に対して無力どころか、余計に彼女を傷つけている気がして、悩みが深くなるばかりだ。
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