第41話 悪者⑥
「先に帰ったんじゃないのか?」
無理して笑う京華に、そんな月並みな言葉しかかけられなかった。
「ちょっと、一人で考えたくてさ」
華奢な脚を宙でぶらぶら揺らしながらそう言う。足首までしかない短いソックスは、どう考えても防寒には役に立たなそうだ。素足を晒して寒くないのだろうか。見ているこっちの方が、余計に寒さを感じてしまう。
「考え事ね」
「あはは。笑っちゃうよね。私の嫌われっぷりときたら、教員にまでなんだから。逆にすごくない? ここまできたら、もう全員に嫌われる方が楽じゃない?」
京華は大げさに肩を竦めてみせる。その動作はどこか芝居じみていていた。
「……それは叶わないだろうな」
「なんでよ」
「俺は――お前のことを裏切らないから」
自分の顔が熱くなるのを感じる。驚いた顔をした京華がこちらをじっと見ている。視線が交わるのは恥ずかしいが、自分から目を逸らすのもみっともない気がして堪えた。
俺だけじゃない。りんごだって京華を裏切らない。目の前で自信を無くしそうになる女の子をこのまま放っておいてはいけない。彼女は日向に戻るべき人間だ。無意識に親指の爪の脇を人差し指で引っ搔いていた。緊張したときに出る、俺の悪い癖だ。
限界まで視線を保ち続けたが、先に目を逸らしたのは京華だった。制服の中に着込んだパーカーのフードをフードを勢いよく被ると、見えもしない星を探すように空を見上げた。つられて追うように夜空に目を向けると、隣で小さく鼻をすする音が聞こえた。
「――バカ言ってんじゃねえよ。初めから誠人が私を裏切ったら殺していい約束だったでしょ」
「ふん。そんな約束はしてねぇよ」
どれくらいだっただろうか。ポケットの中で、いつまでたっても人肌にならないコーヒーを飲みながら星のない夜空を俺たちは見上げていた。そんな静寂を破ったのは、りんごからの一本の電話だった。思っていた以上に時間が過ぎていたことに気づかされる。
急いで京華の家に帰ると、りんごは頬を膨らませて待っていた。もう練習する時間なんてほとんど残されていなかったが、軽く謝罪をした後は皆で晩ご飯を食べて、ほんの少しだけ合わせ練習をして解散した。
家に着いた時には、時計の針は九時を回っていただろうか。今日もお袋の帰りは遅いらしく、部屋は暗くて肌寒い。静まり返った部屋の照明をつけると、電球から「チッ」という小さな音が聞こえた。昼白色の光では、部屋が視覚的に暖かく感じることもない。硬くて重い学生服をハンガーに掛けたものの、気分が落ち着くことはなかった。仕方なく風呂場へ向かう。
裸になると、冷気が全身を刺すようだった。シャワーのノブをひねると、頭上から容赦なく冷水が降り注いだ。思わず息が詰まり、心臓が跳ね上がる。同時に、文字通り「頭を冷やす」というのはこういうことかと思い知らされる。クラスメイトからの嫌がらせや、明田のあの言葉。そして、夜空の下で見た京華の姿。混濁した思考が冷水とともに少しずつ流れ落ちていくような気がした。
俺にできることは何だろうか。徐々に温度を取り戻したシャワーの下で、散らばっていた考えが一つに纏まっていく。京華は、このままでいい。そしてライブも、絶対にやりきってみせる。そのためには――。
翌朝、目を覚めると、昨日まで深い霧の中に迷い込んでいたような考え事が嘘のように消えていた。絡み合っていた思考は自然と一つに整理されていて、それを実行に移そうとする力が湧いてくるのを感じた。時計はちょうど五時を指している。閉めた部屋の扉の隙間から、お袋が作る朝食の香りがほんのり漂ってきた。
「あら、おはよう。早起きなんて珍しいじゃない」
今日は家を出る時間が遅いのか、お袋はラフな格好でキッチンに立っていた。軽く挨拶を交わしながら洗面台へ向かい、顔を洗う。顔を洗う前から目が冴えているなんて、自分でも驚くほど珍しいことだ。
「ねぇ、誠人も朝ごはん食べる? お母さん、あんたが早起きするなんて思ってなかったから、何も用意してないんだけど」
「いらない。お湯があるならコーヒーだけでいい」
奥から「わかったわ」と軽い声が返ってきた。新品のタオルが濡れた顔や手を柔らかく拭い、余分な水分を吸い取った。それから、歯磨き粉の味が口に残るのが嫌いで、先に歯を磨いた。
リビングに戻ると、淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。だが、香りを楽しむ余裕もなく、一気に飲み干した。お袋は驚いた顔をしてこちらを見ている。俺が猫舌なのを知っているからだろう。
いつもより一時間早く家を出た。見慣れた通学路も少し時間が違うだけでいつもと違った景色に見えた。街は早朝の静けさ包まれていて、これならイヤホンはいらないと思った。外の音に耳を傾けながら歩いていると、この街にも意外といろんな鳥がいることに気づく。普段は気に留めることのなかったさえずりが、まるで朝の空気を彩るように響いていた。
電車はいつもより混んでいた。音楽を聴きたかったけれど、人の多い電車の中ではカバンを開いてイヤホンを取り出す余裕なんてなかった。
この時間に学校に向かうのは入、学式以来初めてだった。誰よりも早く学校に着いてしまうのではないかという妄想は、到着する前にあっけなく打ち砕かれてしまった。運動部の掛け声や楽器の音が響いている。どうやらとっくに朝練は始まっているらしい。
何かに打ち込んでいる人は心から尊敬に値する。俺にだって打ち込めることはある。それでも毎日毎日、こんな朝早くから練習している人たちの姿には驚かされる。必死に一つの大会を目指している彼らを俺は笑わない。寧ろ、どこかの主人公よろしく心の中で敬礼した。
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