第42話 悪者⑦

 こんな余計なことを考えていられるのも、これで終わりだ。職員室の前に立ち、心を落ち着かせようと深呼吸していると、出席簿を胸の前に抱えた女教師が勢いよく飛び出してきた。ぶつかりそうになったが、先生はどこか急いでいたのか「ごめんね」とだけ言って、足早に去っていった。


 扉は開け放たれたままだ。冷たい空気が流れ込んでくるのか、中で新聞を読んでいた社会科の先生が訝しげに眉をひそめ、こちらをじっと見ている。逃げられない。覚悟を決めて、意を決しながら職員室の中へ一歩を踏み出した。


「おはようございます。明田先生はいらっしゃいますか」


 俺が声をかけると、奥のデスクから明田先生が顔を上げた。一瞬意外そうな表情を浮かべたが、すぐに何かを察したのか、無言で奥のソファを指さした。



 二人分のコーヒーを手に持って、明田は向かいの席に腰を下ろした。紙コップから立ち昇る白い湯気が、二人の間を曖昧に隔てるように漂っている。


「こんな朝早くから、どうしたんだ?」


 声は平静を装っているが、その目にはわずかな探るような光が宿っていた。昨日の出来事を気にしていないわけではないのだろう。それでも、あえて何も言わないあたりが彼らしい。


「昨日は失礼な態度を取ってしまい、すみませんでした。」


 昨日のことをなかったことにはできないし、これを曖昧に済ませたままでは、次の話に進むことなんてできない。俺は頭を下げた。怒られるのが怖いわけじゃない。ただ、誠意を尽くさなければならないと思った。


「……頭を上げろ。ふむ、こうして謝りに来る生徒は珍しい」


 顔を上げると、明田と視線がぶつかった。その目には厳しさがありつつも、どこか思案するような色が見えた。


「それで、ここに来たのは昨日の続きについてだろ」


「その通りです。蒸し返すようで心苦しいんですけど、俺は京華が間違っているとは思いません。でも、このままではいけないことも理解しています」


 今も、明田はじっと腕を組んで俺の目を捉えている。その目には少なくとも、俺の話を無視しようという態度は感じられなかった。


「……続けろ」


「だから、先生には俺たちがステージに立つための意見を頂きたいんです」


「それは昨日話しただろ。そんな事を言いに来たのか?」


 言葉が詰まる。それは冷たい言い方に聞こえた。だけどそれは、俺たちの視線から感じたことだ。明田からすれば俺たちがステージでライブをしようが知ったことじゃない。応援する義理がない。ましてや俺たちのライブに反対的な意見が多いのであれば俺たちを後押しするメリットがない。


 昨夜は、何もかもが上手くいくような気がしていた。だが、こうして現実を目の当たりにして、俺は明田を説得するだけの材料を持っていないことに気づく。ただの学生が、先生にメリットを与える条件なんて提示できるわけがない。


 あまりにも力不足だ。もどかしさと悔しさが胸にこみ上げ、目元に熱さを感じる。けれど、それを表に出さないように、歯を食いしばった。


「ステージに立ちたいんです。ライブを成功させれば何かが変わる。そんな気がするんです。俺だってそうだし、京華の授業態度も俺が何とかしてみせます。あいつは本気なんです。何もないところから始まって、練習場所を探して、仲間を作った。学校が終われば遅くまで練習して、最高のステージにするために色んなことを話し合って――。そんな真剣なあいつを見て、俺は応援してやろうと思ったんだ。それが、こんな形で終わってしまったらあいつはきっと救われない。先生には何も得がないかもしれない。だけど、お願いします。俺たちに力を貸してください」


 明田の言う通り、俺たちは子供だ。だから、最後は感情で押し切るしか方法を知らない。もしも俺に力があれば――なんて思っても、現実は厳しくて、待っていたのは内臓を針で刺されるような耐え難い静けさだった。


 恐ろしさで、顔を上げられない。顔を上げてしまえば、すべてが終わってしまうような気がしたから。


「顔を上げろ、清水」


 その言葉を聞いた瞬間、顔を上げざるを得なかった。


「ははっ、ひでぇ顔してんな」


 一体、どんな顔をしているのだろう。どうやら、笑ってしまうような顔をしているらしい。決して自分で見たいとは思わないが。


「いいか? 俺に得がないと言ったな。見くびってもらっちゃ困る。損得で動きたいなら教師なんて仕事はしない。俺が見たいのは、子供の成長なんだ。高校の教師っていうのは面白い仕事で、大人に変わろうとする年頃の子供たちを目の前で見ることができる。俺はそれを近くで見守るのが好きなんだ」


 無精髭に逆らうように頬を撫でると、明田はタバコに火をつけた。遠くから生徒の前で吸うなと声が聞こえたが、明田は構わずに煙を吐き出す。その煙は、湯気と同じように揺れながらも、どこか異なる流れを持っているように見えた。まるで温かさと冷たさが入り交じったように、柔らかな動きで空気に溶け込んでいく。


「いいだろう。お前たちがどんなものを見せてくれるのか、興味が湧いてきた。お前らに力を貸してやる。期待に裏切るようなことはするなよ」


 明田の言葉を聞いて、俺は連絡先が書かれた紙切れを黙って受け取った。ポケットにそれをしまい、肩の力が微かに抜けるのを感じる。顔には出さず、何も言わずに礼を言ってから職員室を後にした。


 「困りごとがあれば連絡してこい」という言葉が頭の中で響いた。いざという時に頼れる人がいるというだけで、少しだけ安心できる気がした。その足取りは、少しだけ軽く感じられた。



 随分と長く感じたが、実際にはそれほど時間は経っていなかった。教室にいてもすることがないので、屋上で小説を読んだ。八時を過ぎると、校門から登校する生徒たちが次々とやってくる。その中に京華の姿を探し、ようやく見つけると、今日も彼女は一人だった。しかし、孤独の言葉は彼女には似合わず、歩く姿は力強さを感じさせた。変わらぬ彼女を見て少し安心し、俺は教室へと戻った。

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