第43話 風邪①
風邪をひいた。起きたときにはすでに自覚があった。冬に備えて二枚重ねにした毛布は、いつもなら寝ている間に一枚は床に落としているのに、今日はちゃんと二枚とも掛かっていた。それなのに寒気を感じる。鼻は少し詰まっているが、息ができないほどではない。しかし、悪寒と倦怠感、手足の冷え切った感覚に加え、顔だけが火照っているのがわかった。
「ちゃんと体を温めて寝てなさい」
お袋はそれだけ言い残して仕事に出かけていった。学校には連絡を入れてくれたらしい。
玄関の扉が閉まる音が響き、硬いヒールの音がコツコツと遠ざかっていくのが耳に残る。
ベッドから起き上がり、足を下ろして座り直した。手を伸ばし、スタンドに掛けてあったギターを手に取る。たまには家でゆっくり練習するのも悪くないと思った。床に置いてあるアンプの電源を足の指で入れ、ヘッドホンを装着する。設定は前回のままで問題ないはずだ。十分に歪む音が出るだろう。セレクターをリアに合わせ、開放弦をピックで弾いた。歪んだ音が頭に響き、頭痛を誘発した。それならクリーントーンで落ち着くような曲を弾こうと思ったが、今度は指に力が入らなかった。
……駄目だ。お袋の言う通り、大人しく寝ていよう。
下手な鼻歌が耳に入り、目が覚めた。枕の脇に置いたスマホで時間を確認すると、時計はすでに午前十一時を回っていた。
お袋か? 平日のこんな時間に、俺以外に誰が家にいるというんだ。いや、まさか泥棒ではないだろう。こんなに暢気に鼻歌を歌う泥棒がいるなんて話、聞いたことがない。
「先輩、起きちゃ駄目ですって!」
「……チャドか?」
「だから、チャドって呼ばないでください!」
キッチンにはりんごが立っていて、何か料理を作っているらしかった。エプロン姿のりんごは新鮮な光景だったが、どうやらお袋のを借りているようで、サイズが合わずどこか不格好だ。
もこもこのアウター(正式名称は知らない)を羽織っていても、やはり布団の外は寒く感じた。だが、キッチンに背を向けるりんごはいつも通り、どこか病んだような……悪い言い方をすれば中二病っぽいデザインの服を着ていた。フリル付きの黒いショートスカートから素肌が露出しているのに寒さが感じられない。俺が本当に風邪を引いているのだろうと思わざるを得なかった。
「もう少しでできるので、ちゃんと寝ててください」
おたまを持ったりんごに背中を押され、俺は仕方なく自室に戻った。しぶしぶ布団に潜り込んで、りんごが作る料理を楽しみに待つことにした。
「できましたよ」
運ばれてきた土鍋を見て、それがおそらくお粥だと判断した。そこから漂う酸っぱい匂いが鼻をつく。
「梅干し……」
「高校生なんだから、好き嫌いしないでください。元気が出る食べ物、たくさん入れておきましたから!」
りんごは土鍋を倒さないようそっとお盆に置き、隣に座った。そして、俺の顔を見て可笑しそうに笑った。
「ふふっ、すごい寝ぐせですね」
りんごは「可愛い」と言って、俺の髪を優しく撫でた。近づいた彼女の体躯からは、ほのかに香水の香りが漂ってきた。同年代の中では小柄なりんごは、数年前からあまり変わっていないと思っていたが、胸元には男にはない柔らかな曲線が生まれていた。
「ピアス、増やしたのか?」
「気づいてくれました? 私、減らすって考えがなくて、付けたいピアスを見つけるたびに穴も増えちゃうんです」
そう言いながら、耳にかかった髪を後ろへ流し、耳たぶを摘んで見やすくした。
「先輩も一つくらい開けてみたらどうですか? バンドマンなら、一つくらいあったほうがかっこいいと思いますけど」
「校則で禁止されてる」
りんごは「そうですか」と言い、口元を両手で隠してくすくすと笑った。その仕草がまるで食事中のハムスターみたいで、俺は素直に可愛いらしいと思った。
いくら病気だからと言って、一日中ずっと寝ているなんて出来ない。意識が覚醒してきて目を開ける。カーテンの隙間から覗くのは黒色と、向かいのマンションの明かりだった。身体の調子はいくらかマシになっていた。このまま無理をしなければ、明日には回復するだろう。
またしてもリビングから音が聞こえる。テレビの音だ。どうやらりんごは帰っていなかったらしい。
「チャドさんやー。学校に行かなくてよかったのかい?」
ドアを開けると、リビングにいたのはエプロン姿の京華だった。京華はいたずらがばれた猫のように目を見開いて固まっている。手には木べらを持っており、その姿から料理していたことがわかる。しかし、キッチンではなくテレビの前に立っていた。流れているのは海外サッカーの配信だ。白と緑を基調としたユニフォームと、赤色のユニフォームのチームが試合をしていた。どちらも有名なチームで、サッカーに詳しくない俺でもその名前を知っていた。恐らく、京華が応援しているのは白と緑のチームだろう。
「違うの。誠人が風邪ひいたって聞いたからお見舞いに来て――」
何が違うのかはわからないが、こうして心配して誰かが来てくれるのは、純粋に嬉しかった。
「なんか、焦げ臭くないか? キッチンから黒い煙が上がってるんだが」
俺の言葉に、はっとして視線を追うと、慌ててキッチンに戻った。どたばたとする様子を見て、不慣れなんだろうなと思った。
「もう少しで出来上がるから座ってて」
京華はこちらを見る余裕もなく言った。りんごの時の安心感が全くない。同じ言葉であるはずなのに、どうして同じ言葉に聞こえないのだろう。
作り始めているのだから、心配しても仕方がないか。俺は言葉に従って椅子に座り、することもないのでサッカーを観ることにした。スコアはゼロゼロだった。キーパーがゴールキックを始めるとハイライトが流れた。
京華はこれを見たかったのだろう。赤色のチームがゴール付近でフリーキックのチャンスを得ていた。直接狙ったシュートはカーブしながら、惜しくもバーの右上をボール二個分ほど外れてしまった。たしかに、これは応援しながら観戦していれば、気になってしまう場面だっただろう。
「……お待たせ」
京華が料理を運んできて、恥ずかしそうにしながら机の上に置いた。
これは……。言葉が出なかった。絶句というやつだ。
「お前、これ、なに?」
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