第31話 勧誘①

「誠人、ちょっと来て」


 自分の席でさくっと昼食をすませて(いつものように簡単な栄養補助食品)、空いた時間で小説を読み進めていたところに京華はやってきた。今読んでいたのは昔から沢山の読者とファンを持つベストセラー作品。一日かけて八十キロメートルという長い道程を歩く学校行事を軸に、二人のメインキャラクターの心情の変化を上手に表現した名作である。


 これまでタイトルこそ知っていたが読む機会がなかったが、先日立ち寄った古本屋の夏休みに読みたい本という特設コーナーに並んでいてこれを機会にと手に取った。ついこの間まで本棚の肥しと化していたが、最近になって読み始めた。


 言い方はあれとして、この物語は基本的には登場人物達が道を歩いているだけで、途中に事件の類が起こるわけでもない。それでありながら四百を超える頁を読み進めていてまったく退屈することがない。魅力的な登場人物と情景の浮び上がる美しい描写。登場人物の様々なストーリーが交わり、物語は中盤を越えて主要な二人の話へと移行してきた。俺は午前の授業中も、この後の展開が気になって仕方なかった。


 だから今思えば、教室にいれば京華に巻き込まれるのだから、図書室にでも移動してから本を開けばよかったと後悔する。


「なんだよ」


 文字を目で置いながら返事すると京華は「ねえ」と肩を叩くので文字が揺れた。どうやらやり過ごすことは出来ないらしい。最後に読めるだけの文字を追ってシャツの胸ポケットに刺していた栞を挟んだ。


 京華の顔を見て、ただ何となく手持ち無沙汰を感じ小説をぱらぱらと捲ると、どこに挟まっていたのか、それは分からないがはらりと押し葉がこぼれ落ちた。その木の葉がなんて木のものなのか俺にはわからなかった。


「へぇ、年寄りみたいな事してるね」


 京華はそう呟くとその押し葉を手に取ろうとした。それは長い間挟まっていたのか京華が触れると虚しく砕けた。


「あっ! ……マジごめん」


 京華は焦ったように手を離し、らしくない態度で謝り頭を下げた。


「気にすんなよ。前の持ち主が挟んだんだろ」


「ほんとに大切なものじゃない?」


 頭を下げたまま、京華は上目遣いでこちらの様子を伺っている。なんだよ……らしくない。もっと普通に、いつものような強腰の姿勢はどこにいったのだろうか。ふと、昨日の出来事を思い出す。お袋から逃げて、そしてその後の事、不意打ちのキスは甘くて柔らかかった。


 何故だろう、今日の京華は女の子らしい。仕草ひとつひとつがに気になってしまい、そんな自分に微かな苛立ちを覚える。


 あのキスのせいで眠りは浅かったし、気持ちが浮ついて仕方ない。だから、気を紛らわすように小説に読み耽っていたのもまた事実のひとつだった。


「だから違うって言ってんだろ」


 つい強めの口調になってしまった。京華はビクッと肩を小さく揺らした。だから、なんなんだ。らしくないぜ。


「すまん。久しぶりに声を出したから変な声になった。で、何の用なんだ?」


 京華ははっとして「脅かすんじゃないわよ」と悪態をついてから、


「相談があるの。ちょっと付き合って」


 と、言うのだった。いつもなら一方的に言い放ち、先に歩き出してもおかしくないのだが、京華に腕を引かれて立たされるとそのまま教室の外へと連れ出された。


 腕を引かれながら廊下を進む。その姿は周りから不思議に見えるようで、生徒の視線が気になった。


 京華にかつての影響力はないが、それでも歩けば周囲の人の目を引き付ける存在感がある。彼女の行動は注目される。その針のようなちくちくとした視線は俺にも向けられた。注目されることを嫌う俺にとって、それは心地のいいものではなかった。


 日光を浴び、学生に踏まれて色褪せたリノリウムの床をゴム底の上履きでぺたぺたと音を鳴らしながら歩く。差し込む日差しは宙に舞った埃をきらきらと輝かせていた。まあ、綺麗かろうが所詮は埃。息を吸う度にこれを吸い込んでいるのかと思うと自然と呼吸は浅くなる。


「なぁ、どこに連れてくつもりなんだ?」


「人のいないところ」


 京華はこちらを振り返ることなく言った。未だ腕を掴まれたまま、行先のわからないどこかへと連れてかれる。ここでも良くないかと思ったが京華の好きにすればいいやと黙ってついていくことにした。それに、女の子に手を引かれるってのも悪いものではない。



 辿り着いたのは中庭だった。確かに、ここは普段から人が少ない。校舎のエル字に曲がった辺りのベンチは日当たりが悪くじめっとしていて、しばらく雨なんか降ってないのに、木製のベンチは湿気っていて柔らかい。キノコとか生えそうだ。


 京華は腕を放しどかっとベンチに腰を掛けると偉そうに脚を組んだ。ひらりと靡いたスカートの奥から綺麗な太ももが一瞬露出したが、それを恥ずかしがるような素振りはなかった。警戒心がないのか、それとも気にしていないのか。行動自体は昔のまま豪胆であった。京華はベンチを手で叩く。座れということらしい。


「待っててくれ」


 俺はそう言い残してこの場を離れる。手ぶらで話すのもなんだ。喉も乾いていたし自動販売機で飲み物を買ってこようと思った。


 俺はブラックコーヒーを選んでボタンを押す。はて、京華のは何にすればいいだろう。コーヒーか? 意外と子供っぽいとこもあるし嫌がりそうだ。


 暫く悩んでいると後ろに人の気配を感じ「こいつ飲み物ごときで悩んでるよ」なんて思われるのは不本意なので、適当にレモンライム風味の炭酸にした。


「遅い……。どこ行ってたのよ」


「ほらよ」


 不意打ちで投げたものだから京華は慌ててキャッチする。そして意外そうに俺の顔を見た。


「気が利くようになってきたじゃない」


「何言ってんだ。俺は元々気い使いいなんだよ」


「何を言ってんだか……」


 呆れ顔で缶を開けると炭酸が溢れ出し、京華は零れないように泡を吸う。綺麗な唇だな。なんて。


「――で、なんなんだよ」


「いつ岩沢に話したらいいと思う。放課後?」


 ここにきて尻込みしている京華さんだった。


 


 


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