第30話 プール⑤
便利なもので今の水着、いや……昔からあるのかもしれないけどポケットにチャックが着いていて、小銭を入れても落ちない便利機能が付いていた。
ジャラジャラとコインがぶつかり擦れる音がするのは少々不格好であるが、プール用の濡らしてもいい財布なんて持っていないし、いちいちロッカーに戻るのも面倒くさいので、正直助かる部分の方が大きい。
水泳とは意外と喉が渇くものでこれが平日の、フィットネスとして暇してるじじばばが通うような市営のプールであれば冷水機のひとつでもあるかもしれないが、ここは民間の経営するプール。飲み物ひとつお金が掛かるのだ。
五百ミリのコーラが二百円。許容の範囲か、それを二つと焼そばを一つ、濡れた小銭で購入して京華の座るテーブル席に戻った。
「ありがと」
キャップを外すと気持ちのいい音で炭酸の気が抜ける。ペットボトルは結露していてせっかく乾いた手のひらがまた濡れた。それを癖のように太ももに擦ってみたが、そもそも水着が乾いていないので被害が拡大しただけだった。対面に座る京華はトレーの蓋を固定していた輪ゴムを外している。前傾でそれをするので胸の谷間の深淵がちらりと覗いた。完全に不可抗力とはいえ覗きをしている気分になり視線を脇でではしゃいでる子供たちに移した。
「いいよね、子供たちって元気でさ」
「人によるだろ。俺はあーゆう奴らは苦手だった」
「だったって、過去形? 今もそうじゃん」
俺の昔話には興味が無いのか、雑に言うと割り箸で綺麗に紅しょうがを避け、焼きそばを口に運んだ。
「昔は羨ましく見えたんだよ」
「まあ、似合わないことはやらなくていいんだよ。悪いけど、ああやって夏の太陽みたいに笑っている誠人の姿は想像出来ないわ」
「うるせぇよ。別にいいじゃねぇか」
コーラの炭酸は、液体と交じり合うことが許されないかのように虚しく外の世界にはじき出された。
「——はぁ、はぁ」
先にゴールしたのは俺。手を伸ばし京華をプールサイドに引き上げると、彼女は肩で息をしながら膝に手を置き、息を荒げていた。
「なんで……、そんなに速いのよ」
疲れきった目をして、まるで憎んだ相手でも見るように俺を見上げた。
「自分のペースで泳がないからそうなるんだよ」
「そういうレベルじゃないでしょ。まるで追い付けそうになかったわ。自分が前に進んでないんじゃないかって」
「お前も結構速かったぞ」
「どうもそれはありがとう。だとしたらあんたが速すぎるんだわ。水泳部だった?」
「やってないよ。親父が水泳得意だから。昔教わったんだ」
それなら適わないわと、京華は落胆する。実際、京華もなかなかの泳ぎだった。文武両道の噂も嘘じゃない。正直、俺は泳ぎにはそれなりの自信がある。だから最後の伸びるような追い上げは俺を少し焦らせた。
「まあ、ジュースは奢ってもらうけどな」
「悔しい……。だけど勝負だから仕方ないわね。ほら、買いに行くわよ」
京華は更衣室へ小銭を取りに行き。戻ってくると俺たちは近くの自販機を探した。いざ探してみるとこれがなかなか見つからない。不思議なものだ。
「ねぇ、あれって」
後ろから腕を引かれて立ち止まる。京華が前方を指さし、その先を目で追うと俺はその先を見て唖然とした。
「あっ……」
何やってんの? 前からゆらりと現れたのはお袋と京華の母だった。二人はソフトクリームを片手に、肩が触れ合う距離感で並んでいる。向こうも俺たちに気が付くと、しまったという顔をして動きを止めた。
「いや、違うんだよ。……まさかこんなとこで会うとは奇遇だね」
京華の母はそう言って頭を掻いた。この人は嘘が下手すぎる。俺のお袋もいたずらに驚かされた猫みたいに目を丸くして横を向いた。
ここまで仕組まれていたのか。やれやれと息を吐くとお袋と目が合って片目をつぶるとごめんと手で謝った。
「もしかしてずっと見てたの?」
慌てて俺の腕から手を放すと、京華の顔は電気ヒーターのハロゲンランプのようにじわりと顔を赤くした。そんな反応をされると俺まで恥ずかしくなってくるのでやめて欲しい。とはいえ見られて困るようなこともしていないのだが。
「あれって清水アナじゃない?」
「本当だ! 一緒にいる人も綺麗。テレビの人かな」
その声はどんどんと周囲を巻き込み伝播して、人が人を呼び二人から始まった騒ぎは収拾がつかなくなるほど大事となり、群衆はドーナツの輪を形成して俺たちを囲う。
「あら、気づかれちゃった?」
朝のニュース番組で毎日のようにデレビに映るアナウンサーが放送対象地域のど真ん中で素顔を晒して、しかも水着姿でいるのだ。そら気が付かれるさ。本人には自分がテレビに映る人間である自覚がない。いままで何度こんな騒ぎに巻き込まれた事か……。それが嫌で、いつからかお袋と出掛けるのをやめた。腹立たしいことにお袋はそれを「反抗期ってやつね」なんて間の抜けたことを言うのだ。
人の輪はますます大きくなりその密度を濃くした。こんな状況に慣れていないらしく京華とまた彼女の母は周章し狼狽えている。遂に大衆の中にはカメラを手にする者まで現れると京華は咄嗟に手で顔を隠すのだった。こうした時、彼女たちはどう立ち回るのが正解なのか知らない。慣れてる方が普通ではないだろうが……。
やれやれと京華の腕を引く、
「逃げるぞ」
そして京華を連れて走った。この人々は別に俺たちを捕らえるために取り囲んでいるのではない。だから俺たちが走って行けばそこに僅かな隙間が生まれる。そこを縫うように俺たちは輪からの脱出した。
一先ず、更衣室にでも逃げ込もう。輪を抜けても足を止めなかった。京華も文句を言わず俺に続いた。
「ったく、こうなるとなぜわからないんだ」
普段から運動をしないせいか息が上がる。濡れた足場をぺたぺたと音を鳴らして走る。転ばぬよう、転ばせぬように慎重に、床は摩擦を上げるため床に僅かな凹凸があり踏みつけると稀に足裏に痛みを感じる突起がある。京華の柔らかな肌では足裏に穴でも空いてしまうんじゃないかと心配になる。
「あははっ、すごい騒ぎになってたね。ママのあんな顔見た事ないし」
「……巻き込んで悪いな」
「まぁ、知り合ってなかったらきっと私も野次馬の一人だっただろうし――おわっ」
肩が抜けるかと思った。強い勢いで腕を引かれて、俺は足を滑らせた。目に映る光景は酷い竜巻に飲み込まれたみたいに残像を残して横に流れていった。腕と膝を床に打つ。突起が肉の下の骨にぶつかって痛い。
状況を理解する時には既に、俺は京華の上に覆い被さっていた。前髪が京華の鼻先を撫でる。唇は湿っていた。きっとこの時、俺は俺の顔を見れないくらいに赤くなっていただろう。
京華の、清流のように澄んだ瞳は俺を捉えていて上に被さる俺を受け入れた。触れた素肌に互いの温度を感じる。ここだけ時間が止まっているような感覚だった。ゆっくりと背中に腕を回されると柔らかな胸に触れる。今の俺には、されるがまま心臓の鼓動を悟られぬように深く静かに呼吸することくらいしか出来ない。
「誠人、私を裏切らない?」
唐突だった。だけどこの特殊なシチュエーションのせいか支離滅裂ともいえる質問に違和感を感じなかった。なにより、京華は真面目な顔をしていたから。
「……だから、悪かったって。俺たちのバンドだ。お前がいないと意味がないだろ」
「本当に? 私を捨てて岩沢とバンド組みたいとか言い出さない?」
「だから、違うっての。あれは冗談みたいなもので、俺はただベースが一人加わればお前がボーカルに専念できると思ったから。だから岩沢である必要すらないんだ」
京華は静かに笑い目を閉じると「なら、よかった」と呟いた。俺は俺で誤解を解けたような手応えを感じて安堵する。京華は再びその瞳を開く。彼女の長いまつ毛を見て彼岸花を連想した。ゆっくりと京華の顔が近づいて、吐息を感じるほど迫る。そして互いの唇が重なった。
彼岸花は魂を吸い取る、なんて迷信をばあちゃんから昔教わったっけ。本当にそうなのかもしれない。だってこんなにも心臓が激しく鼓動しているというのに、辺りはしんとしているし、全ての動きはスローに感じた。
そっと唇が離れると京華の恥ずかしそうな顔が見えた。
「ご馳走様」
「……お粗末様でした?」
「ふっ、なんそれ」
かろうじて返した返事は鼻で笑われた。
それから、
「明日、時間頂戴。岩沢にお願いしてみるわ」
何言ってんだか。いままで散々、お前の都合で連れまわしておいてさ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます