第29話 プール④
当然の事ながら、更衣室は男女で分かれている。
館内マップを指さしながら、待ち合わせ場所は更衣室を出た先のシャワー前にした。
こういうのは男が先に着替え終わるものである。トイレに寄ってからレンタルした水着を履き、貴重品をロッカーに仕舞う。先にトイレに寄ったのは少してもお腹をへっこませたいというしょうもない理由からである。そして、一足先に冷たいシャワーを浴びた。これを地獄のシャワーなんて言ってたっけ、なんて昔の記憶が蘇る。
しかしまぁ、濡れた水着というのは独特の気持ち悪さがある。パンツの中のメッシュの部分、これが股に張り付いて仕方がない。布切れ一枚のパンツで股を開いて座れば人に見せては行けない物が人目に触れて、もののけが人里に下りてきたような奇怪の目で見られてしまうことだろう。そう思うとこの忌々しいメッシュにも感謝しなければならない。
なんてスマホをロッカーに仕舞ったから特にする事もなくて、どうでもいいことに思考を働かせてしまうのだった。スマホのなかった時代、人はどうやって時間を潰していたのだろう。
「ごめんお待たせ」
京華の声が聞こえて振り向くと思わず息を飲んだ。
言わずとも、京華は誰が見たってそこらの女子生徒と比べて発育が進んでいる。けれども俺はここまで魅力的な身体を今まで見たことがなかった。健康的に痩せた身体はデッサン人形のように比率が整っている。スラリと伸びた手足、付くべきところについた肉。体の隅々までみずみずしく艶のある肌。小さく窪んだおへそさえ美しく見えた。
日焼けのしていない白色の肌に目を奪われる。光を反射する白色。科学に裏づけされた理論すら否定するかのように、俺の視線は彼女に吸い込まれてしまった。……いや、光の反射率が高いからたくさんの光情報を受け取って見蕩れてしまうのか。家に帰ったら教科書を開いてみよう。きっとそこに答えが書いてあるはず。
「なんか、言うことないの?」
驚いて言葉を詰まらせていると京華は全身を見せるようにくるりと回転する。こいつ、本当にスタイルいいな。
「綺麗……」
「ねぇ、あの人たちモデルさんか何かかな?」
京華の存在は人目を引いた。通りかかる人々は皆一様に興味の視線を送っている。そして口々に思ったことを口にしていた。
「世界一綺麗だよ」
「何その棒読み。面白くない」
京華は不満げに口をへの字に曲げた。この質問が来るだろうと準備をしていて良かった。これが不意打ちであったなら、俺はきっと狼狽していたに違いない。
屋内プールであるため日差しを気にする必要がない。そもそも今は秋なので日焼け止めなどいらないが、それでも女の子は気するところだろう。話が逸れてしまったがつまり俺が言いたいのは日焼け止めを塗るという行為がなくて直ぐプールに入ることが出来たということである。ここでどきどきの日焼け止めクリームを塗るイベントは漫画の世界の中だけだ。
とりあえず俺たちは入口から近くにある人工的に波を作り、海に行った気分を味わえるプールに行くことにした。
足の届く範囲より奥には行かず、ただ波に身を任せるとゆらゆらと水の流れに合わせて身体が揺れる。これがまたリラックス出来て気持ちがいい。水温も暖かく身体を浮かせて目を瞑ればきっと、それっぽいBGMも相まって南国に来ているような気分を味わえるに違いない。しかし残念ながら、人が多くて自由気ままに浮かぶのは他人の迷惑になるのでやめた。
「ねぇ、誠人って意外と筋肉質だよね。なんかスポーツでもやってたの?」
「やってない。汗かきたくないし」
「へぇ、何もしていないのに筋肉が締まってるなんて便利な身体だね」
まじまじと京華に身体を見られると気恥ずかしかった。俺の体格は完全に親父譲りのものだ。高い身長も骨太で頑丈な骨格も。そのせいで中学生の頃は色々な奴に絡まれたりもした。だから、俺は自分の身体があまり好きではなかった。
「ねぇ、触ってもいい?」
興味深そうに俺の身体を見つめると、視線は腹部の辺りで止まった。京華は指を百足の脚のように気味悪く動かしながらじわりと詰め寄ってくる。
「嫌に決まってんだろ」
「いいじゃん、減るものでもないんだから」
と、京華は更に一歩前に踏み出し、俺も合わせて下がった。うっかり後方への注意を怠ると後ろにいた人にぶつかった。
「すみません」
しまったと思い咄嗟に謝ると子供を抱いた若く見える男性は優しく大丈夫と言った。
「隙あり‼」
聞こえた時には遅かった。後ろからホールドするように腕を回し込まれ、俺は腹筋をなぞるように触られる。反射的に背筋が伸び、電気が流れたように全身の筋肉が強ばる。
「すごい、本当に何もしてないの?」
六つに区画分けされた腹筋を縦になぞるように指を撫で下ろしていく。指だけでなく、時々京華の爪が皮膚を引っ掻くとゾワゾワとうぶ毛も逆立つような、寒気とは違う何かが俺を頭を混乱させた。
何より耐え難いのは、剥がされぬ様に夢中になって抱き着くので、女性のみが持つ彼女のふくよかな乳房が背中に押し付けられる。これがまた俺の理性をおかしくさせた。
「――いい加減に、しろっ!」
遂に耐えかねて、俺は京華の腕を掴むと背負い投げの要領で前方へと投げ飛ばす。思った以上に京華の身体は軽く、感心するほど綺麗に飛んだ。
京華はお尻から水面に落ちると大きな水飛沫を上げて消えた。
「ったく……」
びしょびしょに濡れて視界を邪魔する前髪をかき上げる。女の子を投げ飛ばしたのは生まれて初めてだ。まさかこんな日がくるとは、なんて思いながら、眉に付着した水滴を指で拭うと視界はさらに開けた。
……京華がいない。投げ飛ばした先には何もない。派手に上がった水飛沫も今や波に消され、そこには何も無かったと言うばかりに穏やかだった。
どこ行ったんだ? 辺りを見渡すが見つからない。控えめに言っても目立つ女だ。いれば直ぐに気がつくはずなのにと首を動かす。不意に足下に違和感を感じるとくるぶしを掴まれた。俺はそのまま持ち上げられて安定を失うと水の中へと引きずり込まれた。
耳の中に水が流れ込んでくる。空気の世界とは違って水の中はとても静かだった。水の流れと、自分の吐いた息の上に昇っていく気泡の音だけが聞こえた。それは心地良くて、いつまでも沈んでいられそうだ。
天井の照明が差し込んだ水の世界は神秘的に見えた。光の柱を浴びて泳ぐ京華の姿はまるで人魚姫のようだった。切捨てられた釣糸のように情けなく流され沈んでいる俺を京華は指さして笑っていた。透き通るような肌は真珠のようにキラキラと輝いていた。息の限界を迎えて浮上すると京華も続いて水から出た。
「参ったか」
腰に手を当てて、誇らしげに胸を張って言う。
「あ? もう一度、投げ飛ばしてやろうか? だいたいな――」
「ちょっと、お兄さんたち。危ないから今みたいのはやめて貰えないかな」
拡声器を通した声がどこから聞こえてきたのかは分からなかったが、その声は確かに俺たちに向けられていた。自分らが周りの人達の視線を集めていると気が付くと、俺たちは恥ずかしくなってその場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます