第34話 デート?

 家に帰るとまず先に風呂場の支度をした。いれたての熱っつい湯加減に一度は躊躇ったものの、息を飲んで身体を浴槽に沈めていく。肺の空気が押し出されるような気持ち悪さも、一度浸かってしまえば身体は次第に慣れてくる。ふーと息を吐きながら俺は今日の合わせを反芻した。


 今日の合わせは凄かったな。まだびりびりと鼓膜が振動している。京華の歌声はもともと人を魅了する力がある。問題は、ベースも兼任することで歌に集中できず、本来の歌声を十分に発揮できていなかった点だ。だから、俺たちは岩沢を誘おうとしたわけで、結果嫌な思いはしたけれど、これがきっかけに京華のやる気に火がついたと思えば無駄なことではなかったのかな?


 そんなことを考えていたら湯船に浸かりすぎた。火照りを通り越してもはや茹で上がったと言えるほど身体は熱を帯びていた。


 

 明日は京華の父親が久しぶりに帰ってくるとかで、家族水入らずご飯を食べに行くらしい。京華は練習を優先したいと言っていたが、俺も父親があまり家に帰ってこない家庭で育ったから、「ご飯くらい行ってやれよ」と提案した。結果、明日の練習は中止になった。


 寝る前にギターを触りたい。ただ、その前に体を冷ましたかった。冷蔵庫には残り少ない麦茶があったので、それを飲み干し、新しく作り直すことにした。ヤカンでお湯を沸かしていると、湯気で額に汗がじんわりとにじむ。これじゃダメだと思い、俺はトラックジャケットを羽織り、スマホと財布を持ってコンビニまで散歩することにした。


 どうやら雨が降ったらしい。ねずみ色したアスファルトの路面は雨に濡れて黒く色を変えていた。敷き詰められ、平らに整えられた粗粒度のアスファルトが人間が作りだした光を乱反射させて、きらきらと星空のように輝いていた。空を見上げれば分厚かった重々しい雲もどこかに流れ、我ここにありと月が自らの存在を主張している。


 ふと明日の天気が気になって、俺はポケットからスマホを取り出す。動きに反応したスマホのスクリーンが明るくなる。


 りんごから着信があったことに気が付いて俺は折り返した。


「ごめん。風呂入ってた」


「本当ですか? 車の音が聞こえてますけど」


 脇を抜けていった車のことを指しているのだろう。


「身体を冷まそうと思ってさ」


「髪は乾かしたんですか? こんな時に風邪をひかないで下さいよ」


「わかってるよ。で、なんかあったか?」


「わからないんですか? 私、怒ってるんです」


 もちろん、心当たりしかない。京華と喧嘩して、岩沢を誘った。いつもりんごは俺のことを気にかけてくれていたのに、俺は自分勝手に行動した。


「すまなかった」


 立ち止まって頭を下げた。見えないし伝わらないかもしれない。それでも誠意は言葉でなく行動に出ると思ったから。


「まぁ、何があったのかはだいたい想像がつきますが、私だってバンドの仲間なんです。蚊帳の外にされるのは寂しいんですよ」


「……ごめん」


「本当にそう思ってます? だったら先輩、お願いがあります」


「なにそれ、怖いんだけど」


「明日の放課後。付き合って下さいよ」


 京華に聞かされ過ぎた台詞なので、不安な気持ちを抑えることができなかった。



「先輩、こっちこっち」


 電車に乗り、りんごの最寄り駅で降りてから、地下鉄に乗り換える。さらにそこから二つ進んだ先の駅で待ち合わせる。


 ここらで遊ぶなら、りんごの住む街か、今回集合したこの場所だろう。どちらも賑わっているが、りんごの街は会社が多く、呑み屋がたくさんある。それに対して、この駅前はアパレルショップや映画館が並び、若者向けの街だ。もし学生カップルが遊ぶとしたら、真っ先に思い浮かぶのはここだろう。そんな場所で、俺はりんごと待ち合わせた。


 一つ、りんごから課題を出されていた。「私を一日楽しませてください」と、要するに丸投げである。これ以上、りんごを怒らせてはいけないので、もちろんやり切るつもりだ。昨晩、ギターを止めて自分なりのプランを考えてきた。それ故、欠伸が多い。


 色々と回った。先ずは映画館に行き、流行りのアクション映画を見に行った。バターがたっぷりかかったポップコーンを食べながら観る映画は最高だろ? その次は駅前の商業施設で洋服を眺めたり、本屋に立ち寄ったりして過ごした。食事前に腹を空かせようと思い、ボウリングでもしようかと考えたが、りんごの爪が長く伸びていたのでやめた。代わりにビリヤードを1時間ほど楽しんだ。そうして最後に、予約していた寿司屋で食事をした。


「お寿司、美味しかったですね。お米まで美味しかったです。私、お皿に付いたお米まで食べちゃいました。」


「寿司はやっぱり値段によって差が出るな」


「なんか、あのお寿司屋さん。接待で使うような高級感がありましたもんね」


「まぁ……親父に聞いてきたからな」


「親父!」


 りんごはお腹を抱えて笑いながら、「普通、デートの相談を父親に聞きます?」と言って俺の背中を叩いた。



 外はもう暗かった。日中とは打って変わって、辺りはネオンの光に包まれて街の様子を変えた。りんごは食後の運動も兼ねて家まで歩いて帰ると言ったので、俺もそれに付き合うことにした。地下鉄の二駅、実はそれほど遠くない。およそ三十分の距離の道を、りんごは満足そうにお腹を擦りながら横を歩いていた。慣れていない俺のデートプランだが、楽しんでもらえたのだろうか。


「どうだった?」


 りんごは首を傾げたが、今日のプランの事だと補足すると、頷いた。


「うーん、二十点です」


「厳しいな。楽しかっただろ?」


「楽しかったですよ。でも、女の子は減点方式なんです」


 りんごは腹立たしくアヒル口を作り、人差し指を唇に置いた。


「だとしたら、まあまあ減点されてるな」


 興味本位に内訳を聞いてみることにした。


「まず、自分から会話をしないでしょ。それから、目付きが悪いところと、女の子に気を使えないところ——」


 ダメ出しが止まらない。なるほど、これは確かに八十点くらい減点されていてもおかしくなさそうだ。ただ、心のHPはもっと減っていた。相関しないのかよ。


「あとは、映画が面白かった。ご飯が美味しかった。これはすべて他人から与えてもらった楽しさじゃないですか。つまり先輩はその対価にお金を払って私を喜ばせてるだけで、先輩自身は何もしてません。どうせそのお金だって、お母さんから貰ったお小遣いなんでしょ」


「失礼な、これでも一応バイトしてんだぞ」


「そうなの?」


 お袋にすらどこで働いているかを教えたことはないが、俺は近所の喫茶店でアルバイトしている。正直お金に困っているわけではない。だけど、趣味に使うお金くらいは自分で稼ごうと思った。それに人と話すのは得意じゃないけれど、個人の店なら駅前のチェーン店のような接客は求められないし、社会に出る前の練習だと思って続けていた。


「……ならいいです。五点あげます」


 少ねえな……。


 他愛のない会話をしながら歩いた。ようやくりんごのうちの前に到着すると八時を回っていた。ちょうど店長が店を閉めているところだったが、折角なのでギターの弦だけ買わせてもらう。


「りんごから聞いているよ。ライブ楽しみにしてるから」


「ありがとうございます」


 お礼を言いながら弦をカバンに入れた。半分閉められたシャッターをくぐって外に出ると、もう一度中を覗いて挨拶をした。


「先輩」


「じゃあな」


「ライブ絶対に成功させましょうね!」


 りんごが笑顔を浮かべると、きらりと八重歯が覗いた。その無邪気な笑みに心を和まされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る