第35話 とある日のこと

 とある日のこと——。


「聞いたわ」


「何をさ」



 今日は京華の母が朝から出掛ける用があったとかで、京華はいつものお弁当を持ってきていなかった。


 正直だからどうしたって話だが、


「誠人の昼ごはんって日持ちするやつでしょ」


 なんて、勝手に決めつけて(まあ事実なんだけど)無理やり食堂まで引っ張り出されたのだった——。



「りんごとデートしたんだってね」


 デート? りんごと遊びに行ったやつか。


 俺は油揚げをレンゲの代わりにうどんを乗せて冷ます。ちなみにレンゲの正式な名称は散蓮華(ちりれんげ)といって、匙の形が散った蓮の花びらに似ていることに由来している。これは日本特有の呼び方でもあるらしい。


「美味しいお寿司食べたらしいじゃない」


 そろそろ食べても大丈夫かな、なんて摘んだ麺を口に運ぶと隣に座る京華は続けた。


 だからなんなんだと思いながら視線を上げると、京華は箸を止めてじっとこちらを見ていた。


「お前だって家族でご飯食べに行ったんだろ? 美味いとこ」


 何か言わないと終わらなそうなので、俺は適当に答える。


「それとこれは別なの——って、おっとっと」


 食い気味に言い返してくる。腰を捻るように体の向きを変えると肘がグラスに当たり危うく倒しかけた。


「はぁ……、何に怒ってんだよ」


「怒ってないわよ!」


 京華は息を整えると、すーと息を吸い込んで、


「デートするわよ」



 どうしてこんな事に……。この間、りんごと待ち合わせた駅の前に立っていた。今日は冷える。まだ学生服の上に一枚何かを羽織るには早いけど、冬も近づいてくるとこんな日も増えてくるだろう。そろそろ押し入れの奥からコートを引っ張り出した方が良いのかもしれない。


 駅に連結したビルの時計は三時五十分を指していた。そろそろ到着する頃だろう。


 やることもなくて後方の銅像を見上げる。長い年月を直射日光に、時には雨風に晒されて、銅は緑色に錆び台座の石材は経年劣化が進んでいた。裃を纏い逞しい髭を蓄えたそのおっさんこそ藤堂直吉。この街の歴史を語るのに外せない人物であり京華のご先祖さまでもある。


「あっ、いたいた。おーい」


 京華が到着する。声のする方向くと短くしたスカートをひらひらとひらつかせながらこちらに小走りで走ってくる。何見てたのと聞かれ、俺は何もと答えた。


「ごめん遅れた」


 俺は黙って腕時計を確認する。四時二分。遅刻したうちに入らない。こんな奴でも思い返せば約束の時間に遅れたことはない。まったく、律儀な女だ。


「行くぞ」


 先ずは映画から。予約はしてあるし上映まで時間がある。食い物やトイレに急がず済ませることが出来そうだ。俺が歩き出すと京華は横に並んで着いてきた。


「いつ着いたの?」


「ちょうど十分前ってとこかな」


「へぇ」


 京華はニマニマと笑うと、俺の肩に腕を乗せた。


「女の子を待たせなかったのは偉い。プラス五点」


「何の点数だよ」


「えっ、だってりんごちゃんが採点したって教えてくれたし」


 りんごのやつ……。遊びに行った話といい、いったいなんの目的があってそんな話を京華にしたんだ。俺を困らせるつもりなのか?


「リンゴがな——」


「なに?」


「女の子は減点方式って言ってたぞ」


「何がいいたい?」



 同じ映画を二度見るのは流石に退屈だった。本当は別の映画がよかったが、京華が観たいというのだから仕方がない。正直、途中寝てしまった。


「あー、面白かった。予算どんだけあんだって感じだよね」


 カフェラテをストローで吸いながら京華は言った。手元にはパンフレットが置かれていて、テーブルの水滴で濡れないように包装を下に広げていた。


「お前、不意の爆発シーンでビビってたもんな。制作陣も嬉しい反応じゃないか?」


「うるさいな。誰だってビビるわあんなん」


 不貞腐れたみたいに前髪を整えると、髪の隙間から京華の双眸が覗いた。


「ねぇ、次は何するの?」


「そうだな。夕食までここで服見たり本屋回ったりして、余った時間はどこか適当にって感じだな」


「オーケー」


 りんごとの放課後をなぞるように、俺は京華を連れて商業施設に入っている服屋や本屋、CDショップを回った。ただ、一箇所だけ違ったのは京華はビリヤードに興味がないようで、カラオケに入った。ただ、のんびりするほど時間があるわけでもなかった。だから、一時間程の時間を京華がひたすら歌い、俺はそれを聴いていた。京華は何度か俺にマイクを渡そうとしてきたが、俺はその度に拒否した。


 京華は「聞いているだけなんてつまらなそう」と言ったが、俺は京華の歌声を聴いているだけで十分だった。そういえば、俺が初めて京華の歌声を聞いた日、あの時はそれこそ俺とのカラオケはつまらなそうなんて言って公園に行ったのだった。つるむようになってから思ってる以上に時間が過ぎていることに驚いた。


 そうして予約の時間ちょうどに寿司屋に到着した。あれやこれ、自由に食べると会計がどうなるのか予測がつかなかったので、今回も予めコースにしていた。俺なんかよりも上流の生活をしている京華が満足するのかはわからなかった。何故だか、自分が試されているような緊張感があった。結果を言えば京華は美味しいと言って俺は安堵した。


 寿司を食べ終えて、俺たちは駅まで戻った。同じ電車と同じ乗り換え。俺の方がいくつか先の駅だが、途中までは同じだ。


「じゃあ、帰るか」


 改札にスマホをかざすと、ピッと小さな電子音が鳴る。


「ちょっと待った!」


 改札を抜けようとしたところで京華は俺の学生カバンを引っ張った。


「なんだよ……」


 引かれて止まると後ろにいたスーツ姿の男性に抜かれてしまった。どうすんだよ、俺これもう一度通ることできんの? 


「なんだって……。これ、りんごちゃんの時とまったく同じじゃないの!」


「そうだけど、なに? お前も映画観て寿司が食いたかったんじゃないの?」


「違うわよ! あーもう……」


 京華は食い気味に言うと、口角をへの字に曲げがしがしと髪を掻いた。しばらくして、京華は自分の中で解決したように息を整えた。どうして不満げなんだろうと観察していると俺はネクタイを掴まれ顔が近づく。上品な香水の香りが鼻をくすぐった。


「もう一個だけ、なんか考えてよ」


 何を怒ってるのかと思えば――なんだ、遊び足りてないだけか。俺は悩みその場に立ち尽くしていた。視線を足元に向けると風でひらりと靡いた短いスカートから色素の薄い太ももが見え隠れする。また視線を上げると京華と目が合う。京華の瞳は街の明かりを写し込んで、きらきらと輝いていた。そうだな……。


「海でも行くか」


 京華の表情はぱっと明るくなる。俺の提案を聞き入れると京華は「早く行こう」と言って、ネクタイを掴んだままいそいそと改札を抜けた。無賃乗車にならぬよう変な態勢でスマホをかざすと、ICリーダーは通常の緑色から赤色に変わり、フラップゲートは俺と京華を分かつように閉じた。


 後ろがつっかえて申し訳ない気持ちになっていると有人改札口の中から駅員に呼ばれる。俺は事情を説明してから入場したのだった。

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