第33話 京華覚醒
「ちくしょう。なんだってんだ!」
衝動に任せて俺は自分の靴箱の扉を乱暴に閉めた。岩沢との会話を思い出すと苛立ちを抑えることができなかった。断るにしたって言い方ってのがあるだろう。
「まぁ、落ち着きなって。こうなるのも予想の内だったじゃん」
京華は何事もなかったかのように笑っていた。寧ろ苛立つ俺を見て楽しんでいるようにも見えた。
「お前はいいのかよ。あんなこと言われてよ。くそっ、馬鹿にしやがって」
投げるように置いたスニーカーはスノコの角にぶつかってひっくり返り、俺は舌打ちした。
空はホコリの塊を敷き詰めたような、どんよりとした曇天だった。肌がベタつくような感覚はこれから雨が降る報せなのかもしれない。こんな天気じゃ気分も晴れやしない。俺は道端に転がっていた空き缶を蹴飛ばす。
「誠人が感情を剥き出しにするところ始めた見たかも」
他人事のようにおかしく笑うと、蹴飛ばされて男爵芋のように形を歪ませた空き缶を拾い上げると、近くのゴミ箱に入れた。
「……」
俺は何も話す気になれなかった。だけど京華は後ろに手を組んで横に並び、俺の顔を覗き込んだ。満足そうにうんと頷くと、軽やかな足取りで前に踏み出し、車道の白線の上に乗った。聞き覚えのあるメロディーを口ずさみながら、両手を広げて白線の上を歩いている。曲名は思い出せない。
しばらく聞いているうちに曲のタイトルを思い出した。『愛の挨拶』だ。俺もこの曲は好きだった。この曲を聴いて恋人や家族への愛と暖かさを感じる人が多いかもしれない。だけど、俺はこの曲はどこか昔の思い出や穏やかな自然を想像する。これを今聞くような気分ではないと思ったが、まるで生の楽器を演奏しているような美しい鼻歌に聞き惚れると、気分も落ち着いてきた。
「……いつもは俺が止める側なのにな。まったく、みっともないな」
自嘲気味に呟くと京華は片足を軸にして回転するみたいに振り向く。
「嬉しかったわ」
「あ? いつから被虐性愛に目覚めたんだ」
「違うっての!」
唇を尖らせて京華は憤ると、それから表情は反転してもじもじと言葉を続ける。
「だから、私のために怒ってくれたんでしょ。ありがとう」
「違げえよ。岩沢の言い方が気に食わなかっただけだ」
「ふふっ、素直じゃないんだから」
季節を先走った様な冷たい風が吹き付けると髪を京華は手で押さえた。手櫛で頭を整え、辟易して耳にかけると彼女の耳は赤くなっていた。
「だから——」
「私にも味方がいる。そう思えただけで嬉しかったの」
「……そうかよ」
照れくさくて顔を背けると京華はまた可笑しそうに笑った。
「岩沢のやつ、まじむかつくわ。私たちのバンドを泥舟って言いやがって……。最高のライブにして見返してやろうよ」
「あぁ、そうだな」
次の日。放課後になる一度家に帰り、それから京華の家に向かった。三人が揃ったのは四日ぶりだった。
「りんごちゃん。学園祭の準備は落ち着いたの?」
「すみません。おかげで準備に貢献できました。これで、しばらくはこっちに集中出来そうです」
りんごの学校の学園祭は俺たちよりも数週間早い。クラスの出し物があるので、そちらを手伝わないといけない。彼女いわく二つの学園祭に対する重要度の比重は、俺たちの学園祭の方に寄っているそうで、だから少しでも参加出来る時に手伝い「私も協力してますよ」とアピールしているらしい。
ともかく久しぶりに揃った訳だ。俺たちは残り少ない練習時間を有効に使い、クオリティを上げていかなければならない。セッティングをしながら京華とりんごは他愛のない雑談をしていて、その中には岩沢をメンバーに誘った話も含まれていた。
しまった……、ドタバタしていて結局話せてない。内心でそう思った頃には遅くて、りんごは怪訝に眉をひそめて俺を見た。
「別に、隠してたわけじゃない」
咄嗟の言い訳をりんごは言及しなかったが、暫し黙り込むと呆れたように息を吐いた。
「別に、なんにも言ってないですけどね。先輩は余計なことしなくていいんです。私たちは三人で十分だし、苦手なところは互いに補えばいいんだから」
まったくもって正論だ。言葉を返す余地もない。ただ、岩沢を誘ったこと自体、選択が誤りだったとは思わない。俺の過ちは急ぎすぎた結果を求めたことだ。もしも、きちんとした手順を踏んでいれば、岩沢がバンドメンバーになっていた別の世界線もあったかもしれない。これはあくまで結果論だが、結局、何も得られずただ気分が悪くなっただけだ。浅はかだったと、今は痛感している。
「おぉ、りんごちゃん」
「京華!」
京華に向かってりんごがウインクすると二人はひしっとハグする。それは見ていて非常に微笑ましいものだった。
「それじゃあ。合わせますか」
「オーケー」
もうスティックでカウントは取らない。俺たちは視線で合図を送り合い、演奏を始めた。
最後に鳴らした音が消え去るまで耳を澄ましていた。言い換えれば余韻に浸っていたと言ってもいい。今までで一番の完成度だった。個人練習によって、各々のスキルを上げてきたのは当然として、その中でも特出して、飛躍的にレベルを上げてきたのは京華だった。俺の心臓は高鳴っていた。この高ぶる気持ちは日常生活ではありえない。きっと頭の中ではどくどくと脳内物質が出ているはずだ。
「す、すごいです。一体何があったんですか?」
ねっ、とりんごが俺の顔を見る。京華は歌もベースの演奏も完璧に仕上げてきた。驚きを隠せなかったし、感動さえしていた。だから今のこの気持ちを言葉にするのは難しかった。
何がここまで京華を変えたのか。それは明確で岩沢だ。あの日の夜、俺は家に帰ると悔しくて寝ることを忘れ朝方までギターを弾いた。きっと彼女もそうなのだ。怒りや憤り、悔しさが京華を本気にさせたんだ。「見返してやりたい」その思いが彼女を奮い立たせたに違いない。
……本気になった京華がこれほどとは、本当に末恐ろしいやつだ。もはや笑えてくる。
「何笑ってんのよ」
もはや笑いの堪えることの出来ない俺に京華はむっとする。
「いやほんとに、お前はすごいやつだよ」
大丈夫だ。俺たちならきっと上手くいく。心の底から湧いてきた感覚的で根拠のない自信を俺は信じてみようと思った。
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