第8話 京華の歌声③
俺はもともとは左利きだった。親父もお袋も、物事にいい加減というか、寛容な性格をしてるから俺を無理に矯正させようとはしなかった。じゃあ誰に? と問われれば、ばあちゃんで幼い頃に両親の仕事の都合で預けられた時に直されたのだった。
レフティーギターは全てが鏡写しになる。全てが反転したギターに京華は戸惑い、思うように扱えないことに困惑した様子を見てせいた。
「頭で思う以上に難しいね。なんか適当に弾いてよ」
弾いたことがあるからこそ、奏でたい音が出せないもどかしさがあるのだろう。京華は悪態をつくと俺にギターを戻してきた。
「……何がいい?」
俺はペグを回し、感覚の中でチューニングを合わせる。
「意外……。断られると思った」
「嫌がれば嫌がるほどお前は聴きたがるだろ?」
「それはそうだけど」
はて、どうしたものかと俺は悩む。京華の好みなんて知らない。知らない曲をリクエストされて演奏出来るほどの技術は俺にない。少しの間考えて、脳裏に浮かんだのは楽器屋で流れていたあの曲だった。アルペジオから始まり、生音でもそれっぽく聞こえるので、ちょうどいいかもしれない。
風に靡く木々の葉の音が止んで、俺は弦を弾いた。どこか寂しいイントロは、何度も何度も練習してきた。楽譜は頭の中にしっかりと記憶され、無意識に指は動いた。人前で演奏するのは照れくさい。どんな顔して聴いているのだろう。下手くそだと笑っているかもしれない。それでもなぜか、京華になら聴かせてもいいと思った。
横目に京華を見ると、身体はメロディに合わせ小さく横に揺れていた。音楽を共有する。それは初めての経験だった。不思議な感覚に囚われ、俺はもう失敗して笑われる心配なんてしていなかった。
Aメロに入ると京華は鼻歌を重ねた。俺はこの曲を知っていることに驚いた。有名な曲だから聴いたことがあってもおかしくはない。だけど、京華にこの根暗な曲は似合わなかった。京華は、この歌の対局的な存在ともいえるから。
京華は目立っていて、いつだって物事の中心にいた。凛とした立ち姿は皆の視線を集め、圧倒的な魅力ですべてを支配して自分の思うまま意見を通してきた。もし俺が京華と知り合う前に歌っている姿を見たら、きっとこの曲を冒涜されていると怒っただろう。だけど今は違う。彼女は彼女なりの問題を抱えていて、今までの振舞のツケを払っている。そして何より……京華の歌声は美しかった。まるで調律したばかりのピアノのように響いていた。
気が付けば俺が京華の鼻歌にリズムを合わせていた。サビを前にして京華は歌いだして、それは周りの全ての音が雑音だと言われてしまうような透き通った歌声だった。そして、自らの体験を歌っているような表現力を持ち合わせていた。圧倒的な歌声に魅了されて、気が付けばあっという間に終わった。俺は興奮し高鳴った胸を落ち着かせるように目を瞑った。
「どう思った?」
「どう思ったって、変な質問すぎるだろ……」
「変じゃない! 私はすごく興奮した!」
京華は自分の胸に手を置くと深く息を吐く。身体を預けるように肩を寄せてくる京華の吐いた吐息は生々しいほど近くに感じた。
「そうかよ……。まぁ、あれだけ気持ち込めて歌えばそうなんじゃねーの?」
お前の歌はすごいと伝えるのは簡単だが、俺は気恥ずかしくて素直に言えなかった。
「なんで、そんなに他人事みたいなんだよ。誠人の声、すごくいいじゃん!」
「は? 何言ってんだお前」
「何って、誠人。すごく感情的に歌ってたじゃん……」
本当に何を言っているんだ。俺がギターを弾いて、京華が歌ったんだろ。
「いや、何その顔。えっ、本当に自覚無し?」
「歌うのは好きじゃない」
俺が歌った? そんな馬鹿な、呆れて京華から視線を外すと、目の前に体育座りの少女が俺たちを見上げていた。
「お姉ちゃんたち。すごく歌うまいね」
拙い拍手をする少女に「ありがとう」と京華は優しい笑顔で言った。
いつからいたのだろう。そう考えていると思考を読んだように「途中からいたよ」と京華が耳打ちをした。
「ねぇ君。このお兄ちゃんの歌声かっこよかったよね」
京華は少女に向けて問いかける。
「うん! お姉ちゃんの歌声も綺麗だったけど、お兄ちゃんの歌もすごくよかったよ」
少女は屈託のない無邪気な笑顔で片手を上げ、京華の質問に答えた。
「そうだよね! ねっ、誠人の歌声。本当によかったんだよ」
「……」
ということは……。いや、どうせいつもの冗談に決まってる。俺が騙されてそれを京華はからかうつもりなんだ。
京華はベンチから離れ、目線を合わせるようにしゃがみ込むと、少女と俺の声について話しだした。嘘だと思いたかった。
「……帰る」
「でっ、でたー。久しぶりの帰る! でも今回は私、嘘も冗談も言ってないよ」
嘘だと思いたかった。だけど二人の会話に聞き耳を立てて、その会話が嘘の演技には見えなかった。そそくさとギターをケースにしまう。そして逃げるようにベンチから離れると、背中に呼ばれて、しぶしぶ振り返る。
「私、嘘ついてないからね。あとね、初めて名前呼んでくれて嬉しかった」
それだけと言って、京華は少女とともに大振りの手を振った。
俺は返事も返さず、その場を立ち去った。
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