番外編

番外編 古の暗号と秋の風①

「誠人、ちょっといい?」


 ……今度はなんだ。小説に栞を挟んでから閉じると、声のする方に顔を上げた。前の席の生徒は席を外していた。昼休み終了のチャイムが鳴るまで同じ部活動の連中とどこかに消えてしまうことを知ってか、京華は前の椅子に腰を掛ける。


「一限って物理だったじゃない」


「まぁ、そうだったな」


 今日は教室ではなく化学実験室での授業だった。これは前回の授業の終わりに先生がアナウンスしていた。俺はすっかり忘れていたが、皆がホームルームの後、続々と移動し始めたとき思い出した。


 化学実験室は四階にあり、自分の教室は一階なので階段を三つ上がっていかなければならない。面倒だなと思いつつ、教科書とノートをまとめたのを覚えている。今回は光の波動性を確認して、干渉や回折のパターンを実際に観察する為に二重スリット実験を行った。化学実験室はカーテンが厚く、通常の教室より暗い環境が作れる。それから実験器具を運ぶ手間が省ける。これが理由だろう。


「私さ、ノート忘れて一度授業を抜けたんだけどさ」


 そうだったか。あまり集中していなかったから気が付かなかった。


「教室からノートを取ってきて、化学実験室に戻る前にトイレに寄ったの」


 ……そうかい。誰も京華が授業中にトイレに寄り道したことなんて興味がない。


「でさ、女の子って便座に座りながら用を足すのが普通じゃん」


 まぁ、立ってするイメージはないな。というなら普通の女の子は男に用を足した話はしない。


「話が見えてこないんだが……」


 断片的な説明に俺は京華の言葉を組み合わせて想像するしかなかった。その副産物としてトイレに座り、用を足している京華の姿が脳内に浮かび上がる。これはいけないと話を先に進めてもらうことにした。


「前置きが長かったかもね」


 京華は俺の顔を覗いていじらしく笑う。こいつ……俺が想像すると踏んでわざと変な言い回しをしてたのか? やられたと眉間に力が入ると、京華は「ごめんごめん」と思ってもない謝罪をして、話を続けた。


「化学実験室って通常の教室から離れた場所にあって、人も多くないし日中でも独特の空気感というか常に薄暗いじゃない? 休み時間とかは、それでも何人かは人がいて気にならないんだけどさ。廊下とかもなんか怖いわけ。でも、教室戻る前に不気味だったけどトイレ入ったの——」


 喉が渇いたのか話を一度中断すると、紙パックのミルクティーをストローで吸った。


「いざ入ると本当に不気味なわけ。いつも使われないからか、蛍光灯は切れかけていてぱちぱちしてるし、掃除も行き届いてなくて変な匂いがするの。嫌だから私は窓を開けて換気しようと思っても、窓枠が歪んでいるのかなかなか開かないし、結局少しは開いたんだけど、今度はそのせいで逆に風が変な音を出して入ってくるの、私は「なんか不気味度が増したんだけど」とか思いながら我慢して個室に入ったわけ」


「なるほど」


「個室の扉を閉めると中はもっと薄暗くて、窓開けたせいで変な音は聞こえるし、本当に怖くなってきて、だから早く済ませようと思ったの。したら、耳を澄ませているからか自分の音がよく聞こえて……、それが私はここにいますって宣言しているみたいでどんどん怖くなってきて」


 説明は下手だが、なるほど。京華がビビりながらトイレに入ったってことはわかった。それにしても、幽霊とかお化けだとか、そういったものに怯えている京華は滑稽で、想像しただけで笑えてきた。笑ったらきっと怒るだろう。この気持ちを表に出すほど俺は愚かではないが。


「なんでトイレの個室って上も下も隙間が空いているんだろうね。嫌な気配を感じてさ、そう、上から覗かれているような。でね、恐る恐る上を見ると——」


 京華がごそごそと背もたれに隠すように持っていたノートを広げる。ノートに上端にメモされた『F4 2-5 ガニバ』という文字を指さした。


「扉の上にボールペンで書かれていたの」


「ほう……、で?」


「で? じゃないわよ。気にならない?」


「普通に業者のメモかなんかじゃねーの」


「違うわ。私も気になって調べたの」


 調べたのか。どんだけ気になっているんだ。


「スマホでねF4 2-5と調べても、何かの型番ってことでもなさそうなの。でね、ガニバって単語もよく分からないし……。誠人はなんかわかる?」


「ガニバね」


 なんだって、日本語? どこかの国の言葉だろうか。ガニバ……、ガリバー旅行記、カニバリズム、蟹場温泉? 駄目だ。どれも違う気がする。


「いや、わかんねーな」


「でもさ、意味のないメッセージじゃない気がするんだよね。書いた人は何かを伝えたくて、あそこにいたずら書きしたんじゃないかな」


「そうかもな。じゃ、何かわかったら教えてくれ」


 俺は京華から目を外し、小説の続きを読もうとすると、それを止めるように腕を掴まれた。


「なんだよ……」


「私、気になります」


「オーケー。お前が最近何を読んだのかわかったよ」


 京華は「話が早くて助かるわ」と言って腕を話した。なにか勘違いしてないか。俺は手伝うなんて一言も言っていない。


 そんな俺の気も知らず、京華は満足げに鼻から息を吐き出すと続きを話し出す。


「物理の授業で先生が、コペンハーゲン解釈と多世界解釈について触れてたでしょ」


 なんだっけか。二つの事象の確率は五分五分でも観測した時点で答えが一つに収束される考え方と、それに対して五分五分の確立の二つの事象は二つ並行して存在していると考えだったかな。


「つまり、私が観測した時点で、この謎解きは始まったってわけ」


 それは解釈違いも甚だしい。それは自己中心な京華の世界だ。神様気どりか、私が観測したから謎解きは存在するはお笑いが過ぎる。


「いや、無茶苦茶だな。そんな覚え方されてると知ったら先生悲しむぞ」


「いいから、一緒に考えて。タイムリミットはこの昼休みが終わるまで、オーケー?」


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