第26話 プール①
よく眠れた気がする。
洗面台の鏡に写るのは、歯を磨いている自分の姿。心做しか普段に比べて目がぱっちりと健康的に開いている気がした。
冷水で顔を洗い。濡れた手で寝癖を整え、俺はリビングに移ると珍しくお袋がまだいて朝食を食べていた。
「今日は遅くていい日なんだよ」
確かに怪しみ不自然に思ったが、それを察したのか言い訳した。
「別に何も言ってないけど……」
そう、と言うと食べていた食パンの残りを一度に口に放り込んだ。もぐもぐと租借しながら、手に付着したカスをお皿の上で払い落した。
お袋の沸かしたポットのお湯が残っていた。残りのお湯で珈琲を作りお袋の前に座って一緒に朝のニュース番組を眺めた。
珈琲は猫舌の俺にとって程よい温度になっていて、それを一度に飲み干して立ち上がると「忙しないわね」と小言を言われた。
「じゃ、いってくるわ」
いつもはそのままの状態で履けるように緩く縛っていた靴紐を一度解き、固く締め直した。こうして改まって自分のスニーカーを見ると踵の底が思っている以上に擦り減っていることに気が付いてしまった。
「ちゃんと話して来なさい」
お袋は俺の後ろに立つと言った。それから、俺は籠に収められた葡萄を受け取り家を出た。
誠人が家を出たのを見送ると景子はポケットからスマートフォンを取り出して操作を始めた。
それを耳に当てる。
「あっ、リリアン? 今ね、誠人が家出たよ」
「聞いていた時間通りね。作戦はアルファでいいんでしょ?」
「ベータもガンマもないけどね……」
電話越しに聴こえてくるのはクラシック音楽で、本当に朝にペールギュントを聴く人がいるのかと驚かされた。
きっと、お庭のテーブルに座ってモーニングのサンドに紅茶でも合わせているのだろう。きっと子鹿や青色の羽の小鳥や可愛らしいリスに囲まれているのだ。
景子は見えないのをいい事にその顔は悪戯っぽく微笑んでいた。
「朝ごはんなに食べた?」
つい気になってしまい景子は質問する。
「なに唐突に……。えーと、納豆ご飯と秋鮭」
先ほどの童話の中のお姫様のようなイメージから逆転して一気に庶民的な朝食を聞かされて、ぷっと小さな笑い声が漏れるとリリアンは「私、変な事言ってなくない?」とつっこまれた。
「そーだ、葡萄も持っていかせたから食べてね」
「やったぁ!」
リリアンが喜ぶと後ろから京華の驚いた声が聞こえた。「じゃあ、また後で」と電話を切った。
…………。
立花三条駅に到着した。改札を抜けると心臓の鼓動が速く打ち始めた。我ながらどうしようもなく小さくて脆弱な心臓である。
謝りに行くことは変わらない。それなのに俺は駅舎から出てからというものの、この後に及んで覚悟が決まらずふらふらと駅前にいた。
そうしていると喉が渇いてきて自動販売機でブラックコーヒーを購入した。ロータリーにはベンチが幾つか設置されてあり、そのうちの一つに腰を掛けてゆっくりと飲んだ。
緊張しているせいか、駅に向かって歩く様々な人が目の前を通るその度に俺は過敏に気にして反応するのだった。本当にどうしようもないな。自分に呆れてこんな自分に恥を覚える。
よしっ。いよいよ覚悟を決めて俺は立ち上がった。
どうやって会話を始めて、どんな順番で話していこう。アドリブで伝えたい事を伝えられるほど器用じゃない。バスが通っているので乗ってしまえば楽に向かえるが、話の流れをシミュレーションしたかったので俺は歩くことにした。
結局、自分の思う完璧な会話の流れは考えれば考えるほど内容が纏まらなかった。あっちを先に話した方がいいか。いや、こっちが先の方が自然だろうか。そうして何度も何度も計算をやり直しているうちに京華の家に着いてしまった。
「……」
インターホンの前で指が止まる。自信がなくなってきた。自然と視線は下を向き、背中が丸くなっていることを自覚する。もう一度、旧藤堂邸を回った方がいい気がしてきた。そうしよう、雑然と秩序だたない謝罪が京華の心に届くとは思えないし……。
「おーい、誠人くん」
知った声に驚いて身体が電流を流されたかのようにびくりと震えた。
視線を上げると門の奥。そこから覗いた車道の脇に竹箒を手にした京華の母がこちらに向かって手を振っていた。踵を返すつもりだった俺は不意を疲れて足がもたつき、そうしているうちに京華の母はこちらに歩き始めた。
「京華に会いに来てくれたのね」
鍵を開け、招き入れられる。完全に内部に足を踏み入れるとガチャりと重い金属の鍵が閉められた。
緊張し、すっと背筋に冷たい汗が流れる。ちらりと京華の母に視線を向けるとその双眸を鉛筆で一本線を引いたように細くしてにこにこと笑っていた。……退路を失ってしまった。
目の前に屋敷。迷い込んだのであれば館モノの事件に巻き込まれそうな状況だな。なんて当初の目的から思考が逸れるのはきっと緊張しているからだ。
「……あの、京華は?」
玄関口まで歩いていく。京華もそうだけどあまり富裕層という感じのしない私服だ。すらりとモデルのように長い脚の輪郭の見えるスキニーのジーンズに無地の白色ティーシャツ。隣に並ぶとふわりと上品な香りがして、その香りが思考をさらに乱れさせる。
「いつもの部屋にいるわよ。課題がどうとか言って朝ごはんを食べてからは籠ってるの」
課題なんてあっただろうか。覚えていない。
「ママー、誠人のお母さんから電話来てる――あっ」
玄関から出てきた京華は目線が合うと目を見開かせて静止する。
薄いピンク色の花柄のパジャマは普段知っている京華には似合わないと思ってしまった。また、それを抜きにしてもその可愛らしいパジャマは高校生が着るのには些か子供っぽいデザインだった。
「よっ、よう」
俺は見てはいけない姿を見てしまった気がして、突然の出来事に挨拶するのが精一杯だった。京華は顔を真っ赤に染めてまごまごと微かに震えていた。
「あらあら」
京華の母は口元に手を添えて能天気な反応をみせたが、俺の心拍はこれでもかというくらいに強く鼓動していた。
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