第27話 プール②
……気まづい。
目の前にいるのは可愛らしいパジャマを着た京華。頭の中で計画していた展開は初っ端から大きく瓦解した。混乱が頭を支配して思考はぐちゃぐちゃに混濁し、その混乱は収まる気配がなかった。
京華は俯き気味に脚を交差させて立つ。八分丈程のパンツからは京華の日焼けしていない素足が露出していた。その挙動、その呼吸。一つ一つが俺の思考を乱した。
手持ち無沙汰に俺は自身の指の骨を鳴らす。すると京華は音に反応してピクリと身体が動いた。
言葉が上手く出せない。普段感じない違和感が喉の奥で言葉を詰まらせた。
「なんだか今日の誠人くん、顔色いいわねぇ」
「ええ、まぁ……」
そんな気まづさもお構い無しな発言が空気を和らげ、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「……確かに。いつもはいかにも寝不足ですって顔してるし」
と、京華も会話に加わる。視線も合わず、変わらぬ居心地の悪さは消えていないが会話に流れが生まれる。俺はぎこちなくても、この流れに乗るべきだと、乾いた唇を濡らす。
「あの、これお袋が持っていけって」
「ありがとう。聞いてて楽しみにしてたのよ」
「ん、聞いてたって?」
「あっ——あー! なんか紙が入ってるぞー」
何かを誤魔化すような、言葉は棒読みで違和感のある反応だった。
別にサプライズの為に持ってきた物ではない。今日、俺と京華がすれ違っては意味がない。恐らくお袋が気を利かせて話を通してくれていたのだろう。その際に葡萄を持って行く話をしたとしてなんたら可笑しなことはない。
まったく……。今回はお袋には感謝してばかりだ。同時に自分の至らなさも思い知る。俺は覚悟を決めると俺は京華に身体を向ける。
「京華——」
「プールの無料招待券じゃん。最近できたとこ? いろんなプールのある」
「あの、だな……」
情けないな。目も合わせることが出来ないなんて。
「そうじゃないかしら。こんな名前の施設だったと思うわ」
「この前は——その、なんだ」
俺を無視するような態度だったし、実際は視線を上げても目なんか合わないのかもしれない。
「へぇ、なんでまたチケットなんか」
「貰い物って景子は言ってたわ」
「新しい施設の招待券なんて、業界の人って感じだね。 つーか誠人。なんか言おうとした?」
「あ? ……いや別に」
嫌な言い方だった。俺は若干苛立ちを覚えたが、俺は謝りに来たんだ。拳を握り自分の爪を手のひらに食い込ませて我慢し、冷静さを保った。
途中から気が付いていた。二人が俺の話を聞いてなかったことに。勇気を出して視線を上げた時には既に京華は母親に寄り添って招待券を覗き込んでいた。
身長差を背伸びして埋める姿は母親の作るご飯を覗く幼い子供のようで、彼女がつま先を伸ばす度に直していない寝癖が連動して、朝の公園で露を垂らす
どうしてプールの招待券が入っているんだ。あの時、俺は確かに断った。
……やりやがった。いたずらが成功したような顔をしているお袋の姿が脳裏に浮かぶ。考えればこうなる予想はつくはずなのに、初めからお袋にからかわれてたのかと思うと感謝の気持ちが薄れてきた。
「あらあら、本当にこんなものまで貰っていいのかしら」
「いいじゃんママ。今度、行こうよ」
くれるって言ったもんな、と京華は久しぶりに俺の目を見た。完全に謝るタイミングを失ってしまった。だから余計なものはいらなかったんだ。
「けど——」
乗り気な京華とは裏腹に京華の母は悩ましそうに顎に手を添えると、
「こんなおばさんが流行りのプールに行ったら、年甲斐がないと笑われてしまうわ」
台詞じみた口調だった。なるほど、すべてを理解した。京華の母も共犯ということか。口裏を合わせて俺をからかうつもりだったんだ。ならば、俺の取る最良の選択は決まっていた。
「じゃ、これを届けに来ただけなので失礼します」
「ちょっと待ちなさい」
踵を巡らして立ち去ろうとしたその時、京華の母に襟裏を掴まれる。振り返る度に恥ずかしくなるような声が出てしまった。カエルを轢き潰したような声。
「こんなおばさんがプールにいたら笑われてしまうわ」
この人、同じ台詞を二回言った。なんて強引なんだ。そうだった彼女は京華の母なのだ。もういいや……俺で好きに遊んでくれて構わない。俺も好きにさせてもらうさ。
俺はティーシャツを整えてこう答える。普段することのない自分なりの爽やかな笑顔も添えて。
「そんなことないですよ。控え目に言っても貴女は十分に美しいと思いますよ」
「まぁ」
それなら私と行きましょうと彼女は俺の腕を取った。俺も笑顔を崩さずにもちろんと答えてエスコートするように玄関に向かって歩き出す。
俺もつくづく小さな男である。馬鹿な俺でもなんであの時京華が怒ったのか、その理由についてはわかっていた。それなのに俺は自身の小さなプライドの為にまたこうして同じ過ちを繰り返す。
ほらね、京華の奴小さく震えてる。こいつはこういうことされるのが嫌いなんだ。仕返しのように俺が今度は京華をいないもののような扱いで脇を通り抜けた。
京華が完全に視界から消えた時、後頭部に強い衝撃を受ける。
「なに人の親口説いてんのよ!」
痛みに頭を擦りながら振り返ると、顔を真っ赤にした京華は興奮し、まくし立てるように罵詈雑言を俺に浴びせた。
「……痛えし」
「なんでこんなおばさんなんかに欲情しちゃってんのよ。まじキモイ。本当にキモイ。あんた何しに来たのよ」
胸ぐらを捕まれ前後に揺さぶられる。語彙力もなく。女王様のあの頃の余裕が無くなってしまっているではないか。俺は煽るようにあざ笑う。そうだよ、俺も怒ってんだ。納得もしていない。だけどこのまま関係が終わってしまうのは嫌だ。だから俺は腑に落ちていなくてもこうして謝りに来て、その結果がこれだ。これくらいの仕返しでもしなけりゃ俺の虫も治まらない。
「ちょっと、京華」
先ほどまでふざけていた京華の母も今の京華が普通の状態でないと察すると、俺の腕から離れ心配するように京華の肩に触れた。
「離してよ!」
京華は自分の母の腕を乱暴に払った。京華の母はそれに驚いた様子を見せ、叩かれた自身の手を擦る。
「お前……本当に何しに来たんだよ」
母を叩いたことを京華自身も戸惑い一瞬京華の動きが止まる。しかし次の瞬間には俺に掴みかかり、刺すような目で俺を睨んだ。
……いや。
京華の瞳には涙が浮かんでいた。グラスの中に沈めた硝子玉の様に、潤み滲んでいる。不謹慎かもしれない。その涙に滲む瞳を俺は綺麗だと思ってしまった。
水清ければ魚棲まずという。俺の息は詰まり。この瞳に溺れて死んでしまうのかとさえ思った。湖底に沈むような感覚は俺の頭を冷ました。
俺は京華の両肩を掴んで引き離す。両の肩は掴んだまま。涙が零れぬように顎を上げる彼女の瞳を見つめて、俺は本来の目的を果たす為に勇気を奮う。
「京華、お前に謝りに来たんだよ。その……だな、昨日はいらない言動でお前を傷つけてしまった。本当にごめん」
京華の顔を見るのが怖かった。それでも、どのような反応でも受け止めるのが責任だと、俺は恐る恐る瞼を開いていく。
「はじめから言えっての」
今日はじめて見た笑顔。心には安堵とそれ以上の言葉に出来ない感情が混在していて、俺はこのまま京華を抱きしめてしまいたいと思うほど可笑しくなってしまいそうだった。
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