第45話 準備の陰で

 教室の喧騒が一段と賑やかになる昼休み、俺はいつものように隅の席で小説を読んでいた。寒さが増すにつれて空気も乾燥し、ページをめくるたびに指が掛かりにくくて気になる。隣の机では京華が突っ伏して寝ていて、その寝息がわずかに背中の上下で伝わるくらい静かだ。肌寒い季節に寄り添うように、窓から差し込む太陽の光が温もりを届けていた。京華はその恩恵を背中に受けながら、気持ちよさそうに穏やかな寝息を規則正しく漏らしていた。周囲のクラスメイトたちは学園祭の準備やその話題で盛り上がっているが、俺たち二人はその輪から完全に切り離されていた。


 ふと視線を窓の外に移すと、ガラス越しに秋の風景が切り取られていた。イチョウの木は黄金色に染まり、いくつかの葉が風に舞っている。青い空にはぽっかりと浮かぶ雲が、時間を忘れたようにゆっくりと流されている。外の風景と教室のざわめきの狭間で、まるで自分たちだけが時の流れから取り残されているような感覚になる。それでも、不思議とその孤立が心地よいと感じられた。


「平和だな」


 心の中でそう呟き、再び小説の文字へと視線を落とした。



 午後の授業は退屈な講義が続く。先生の声が単調なリズムで教室に響く中、二つ前の席に座る京華に視線を向けると、彼女は頭を机に伏せ、すっかり眠り込んでいた。いつもの光景に、周囲はまったく気にする様子もない。授業は淡々と進んでいくが、俺の頭の中では明田との約束が繰り返し浮かんできていた。


 京華の授業態度を改めさせる。それが、明田の助けを得るために、俺が約束したことだった。


 教科書を顔の前に掲げて視線を隠しながら、ポケットから輪ゴムを取り出した。音を立てないよう慎重に引っ張り、狙いを定める。そして、指を放つと、小さな輪ゴムが見事に京華の髪に当たった。


「いったぁ!」


 突然顔を上げた京華が大きな声をあげ、教室は一瞬、静まり返る。誰よりも早く状況を把握した先生が咳払いをして、皆の視線を集めると、呆れたように黒板に向き直った。寝ぼけ眼で周囲を見渡して犯人を捜す京華と目が合いそうになる瞬間、俺は慌てて視線をノートに落としたが、少し遅かったらしく、京華が眉間に皺を寄せて俺を睨みつけてきた。俺は肩をすくめてみせる。


 「何すんだよ!」とスマホの画面にメッセージが飛んでくる。俺は「ちゃんと授業を受けろ」と返信した。京華はぶつぶつと小声で文句を言っていたが、この授業中、再び眠ることはなかった。



 放課後、下駄箱に向かいながら廊下を歩くと、教室から指示を出す声やトンカチで叩く音が響き、学園祭の準備で賑わっていた。漏れた絵の具や紙の匂いが廊下に漂い、少し肌寒い秋の空気と混ざり合っている。窓の外を見ると、校庭の一角にある野外ステージが徐々に形になり始めているのが見えた。


「ステージ、だいぶ出来てきてるね」


 隣を歩く京華が、手にしていたチラシを折り畳みながら話しかけてくる。


「そうだな」


「まだ骨組みだけっぽいけど、かなり大きいね」


 京華の言葉に軽く頷く。


 体育館の入口では文化祭実行委員たちが看板を立てかけ、校舎の窓には色とりどりの飾りが貼られていく。時折振り返りながら、イチョウの木が並ぶ校庭の風景を眺めた。風に乗ってカサカサと落ちる葉が、やがて地面を覆い尽くしていく。俺は秋が終わりに近づいていることを感じていた。



 靴を履き替え終わると、京華は「もう少し近くで見たい」と言い出し、野外ステージを校庭の端から遠巻きに眺めていた。組み立て中のステージでは、数人の大工が足場を整えている。こういったステージは生徒ではなく、業者に依頼しているようだ。その光景を見つめながら、京華がぽつりとつぶやいた。


「ここで演奏するんだよね。機材とかちゃんとしておかないと、奥まで音が届かないんじゃない?」


「そうかもな。つーか、満員になると思ってんのか? これだけ広いのに、逆に人がいない方が俺的には心配なんだが……」


 ふと目を閉じ、その光景を想像してみる。校庭の半分を埋めるような野外ステージで、俺たちの演奏を聴きに来ているのは、数人の関係者。お袋だったり、京華のお母さんも来るだろう。俺とは対極的に、誰もが注目する二人が目立ち、パフォーマンスが始まっても、次第に誰も聴いてくれなくなるかもしれない。


「やばいな。自信なくなってきた」


「はぁ? あんたがどんな想像してるのか知らないけど、そのネガティブ思考やめたら? 後ろの人に音が届かなかったら申し訳ないし、機材とかどうなってんだろう」


 どんだけ前向きなんだ……。俺の心配は呆気なく切り捨てられた。


 きっと、聴きたくて来てくれる人なんてほとんどいないだろう。だから、俺たちが多くの人を惹きつけるには、俺たちのパフォーマンスよりも、先の人たちが集めた客をどれだけ繋ぎ止められるかが重要だ。


「でもさ、やっぱり楽しみじゃない?」


 そう言いながら、京華は小さく跳び上がる仕草を見せる。夕日に照らされる彼女の顔が、少しだけ誇らしげに見えた。


「ふん、期待したようにならなくても泣くんじゃねーぞ」


「誠人こそ、思ってたより人がいるからって緊張してミスんないでよ。格好悪いから」


 京華はそう言って、肩に腕を回してきた。柔らかい匂いのせいか、後ろ向きな思考は心の奥に沈んでいった。フロントマンが不安のない足取りで前を歩いてくれるのは心強い。無計画だし、根拠のないその自信がむかつくけど、随分と頼もしいじゃないか。


「つーかさ、機材のこととかって会議で言われてたんじゃねーの?」


 聞くと、京華は気まずそうに表情を歪めた。こいつ、さては出ていないな?


「いやー、こっちはこっちで準備とか忙しかったし……」


 小さな声で言い訳をすると、鼻の頭を掻いた。じっと見ていると、京華は顔を横に向ける。


「お前……」


 実行委員会が動き始めて、もうしばらく経っているはずだ。野外ステージは学園祭でも目玉の一つだし、午前から午後の部まで一日中何かしらの催し物がある。それに、部活動から個人まで、多くの参加者がいる。アドリブで運営できる規模ではない。きっと関係者で今日までにいろいろな話し合いが行われているだろう。


 思い返せば、京華の家で練習するようになってから、その話を一度も聞いたことがない。俺も気にするべきだった。関係者が多いので、一人いないことに気づかれていないと願うしかない。


「あっ、いたいた。藤堂さん!」


 京華の名が呼ばれる。見ると、教室の窓からクラス委員長の北川が手を振っていた。明らかに呼ばれているので、俺と京華は顔を見合わせると、北川の元に向かった。


「よかった。帰ってなくて」


 一階の普段は使われていない教室の窓から身体を乗り出している北川は、白い歯を見せて爽やかに笑う。


「なんか用?」


 京華が答えている間に、俺は北川のいる教室の中を覗いた。四角く並べられた机には見慣れない顔が座っていて、机に置かれたネームプレートには所属と名前が記載されている。そこから学年や所属がばらばらであることが確認できる。黒板には「進捗状況報告」とだけ書かれていた。委員会の会議が行われているのだろう。


 窓越しに話している北川から寒さを感じている様子はなかったが、教室に冷気が流れ込んでいるのだろう。他の生徒からの不満な視線が刺さった。また、会議を妨げていることもその理由の一つだろう。その中でも一人だけ厳しくこちらを見ている女生徒がいた。名札の色は緑色。その色は三年生だ。どこかで見覚えのあるその生徒が生徒会長であると気づくのに時間は掛からなかった。


「——じゃあ、よろしくね」


 要件は済んだようだ。これ以上、複数の視線を浴びれば、身体に穴が開いてしまいそうだ。さっさと退散してしまおう。背中を向けると、北川は俺に言った。


「明日は清水君も来たらいいよ。大切な会議だから、参加者は多い方がいい」


 顔だけ向けて頭を縦に動かすと、北川も満足そうに笑ってから、窓を閉めた。

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