第47話 たった一つの願い

「……っ」


 目を開けた。

 真っ暗で、何も見えない。いや、違う。夜空だ。目をこらせば、星が見える。いくつも。数え切れないほど。それに、感じられる。潮の匂いや、波音も。

 私は、胸に手を当てて、息を吸い、吐いた。

 たった今、暗く沈む視界と、息が失われていくあの感覚から解放された気がした。

 きちんと呼吸が出来る。それだけのことに、泣きそうになるほど安堵した。


「思い出した?」


 隣から聞こえた声に私は顔を向ける。

 菜穂が、波打ち際に横たわっていた。

 私も同じ姿勢だった。背中が、やわらかな砂地に抱きとめられている。

 夢の続きを示すみたいに、私の右手は、菜穂の左手を握っていた。


「あれから、菜穂はどうなったの」


 橋の上から飛び込んだあの時。私は、水底で菜穂と手を繋いだ後、意識を失ってしまった。

 それから、陸に引き上げられて、かろうじて助けられたのだろう。

 でも菜穂は。


「……」


 菜穂は黙って、首を振った。

 胸が、ぐうっと、詰まった。

 唇を噛んだ。血が滲んで、鉄の味が口に広がった。

 

「ゆうちゃんが助かったのなら、それで良いんだよ」


 菜穂は私の手を離すと、立ち上がった。両手を組んで、空に向かって伸びをした。


「私、本当はずっと、苦しかった。つらかった。

 ゆうちゃんに、そのことを気付かせてもらえて本当に良かった」


 菜穂の体は、もうほとんどが透き通っている。

 夜を映す透明な体には、無数の星屑が、銀河を閉じ込めたようにあふれている。

 それは水面の泡と同じかりそめの命でしかなくて、やがては、ぱちんと弾けて消えてしまう。


「本当はね、私だけ、皆となんだかズレてるみたいな気が、ずっとしてた。 

 自分が生きてることが、ずっと他人事だった。むしろ、申し訳なかったんだ」


 歩き出す菜穂をおいかけて、私は立ち上がる。

 打ち寄せる波跡が砂浜に作った五線譜の上へ、海を弾くように菜穂が歩く。


「でも、やっと自分の人生が、自分のものになる気がする。

 死ねば、二度とつらい思いをしないし、苦しむことだってない。

 そう思えば、悪くないって思う。

 こういう終わり方で。こういう人生で」


 菜穂は振り返ると、「ゆうちゃん」と、やっぱりどこかこわれた笑顔で言った。


「私と友達になってくれて、一緒にいてくれて、ピアノを教えてくれて、ありがとう。

 私、ゆうちゃんより先に死ねて、良かった。

 もう、思い残すこと、ないよ」


 今の私は、声は、言葉は、温度は、命は、すべて菜穂がくれた。

 その大きさが胸に迫ってきて、めちゃくちゃに泣き出したくなる。


「さよならしよう?」


 海風に、菜穂の透き通った髪がなびいた。

 私は、ぐっと目に力を入れて、こらえる。

 私の中でこわれた「ここ」が言っていた。

 





 私の、一番の幸せは。





 

運転手さん、、、、、


 私が言うと、砂浜の奥、菜穂の背後からランプを掲げた人影がやってくる。

 古めかしい詰め襟の制服に、制帽、白い手袋が、明かりに照らされて浮き上がる。

 足音に気付いて振り返った菜穂が、驚きに息を吸い込むのが聞こえた。


「さっきお願いしたことは、出来ますか」


 私の声に、運転手さんは険しい顔を浮かべて、返事をした。

 私の目を、確かに見据えて。


「……貴女は本気なのですか?」


「はい」


 答えると、運転手さんは眉根を寄せたまま、深く息を吐く。


「許可は下りましたよ。あとは私が合図をするだけです。ただし、あなたの独断で為すわけにはいかない」


「分かってます」


「やり直しもききません。最後に聞きますが、それでもいいんですね?」


 私はうなずく。

 菜穂が戸惑いながら、運転手さんと私の顔を交互に見た。


「ゆうちゃんは、何の話をしているの? それに、どうして、運転手さんが?」


 私は息を吸い込んで、言った。


「お願いをしたの。この人に」


 私の、たった一つのお願いを。

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