第40話 教科書は教えてくれない
週明けは、やけに早く目が醒めた。昨日は菜穂の発表会だったのだ。
早めに家を出た。あくまでも、早起きをしたついでだ。
積もった雪を踏みつけて、白い息を吐きながら黙々と通学路を辿る。
もしかしたら、菜穂は学校に来なくなるんじゃないかとも思った。
あの赤い痣を思い出すと、そんな想像も大げさとはいいがたい。
たどり着いた学校の大時計は七時を指していた。普段だったらまだ朝ご飯を食べている頃。
昇降口の下駄箱で、靴入れの戸を開けた時だった。
「だーれだ!」
やわらかいもので視界がふさがれる。
私はほっと息を吐いた。気づかれないように、いつもどおりの自分を取り戻して言う。
「それが教えてもらった人の態度なの」
「じょ、じょうだんです」
手がほどかれる。振り向くと菜穂が立っていた。忍び足で近づいてきたらしい。
「早いね」
「そっちこそ」
言い返すと、怯む様子もなく菜穂が答える。
「私は、早く早川さんに会いたくてさっ」
プールに飛び込む時みたいにぴょんと跳ねて、飛びついてきた。
私が抱きとめなかったら、どうするつもりだったんだろう。
「うまくいった! ほんっとに、ありがとう!」
菜穂の声は嬉しさ百パーセントというわけじゃなくて、安堵も滲んでいた。
頑張って、成果が出る。それは素直に喜ぶべきことだと思う。
それを菜穂は、失敗の重圧に負けずに成し遂げた。
じゃれついてくる大型犬みたいな菜穂の熱い背中を、私はぽんぽん叩いてやった。
「よかったじゃん」
「うん」
菜穂の体はちょっと汗の匂いがした。驚かせるために走って追いついてきたのか。本当にばかだ。
でも、そんなふうに素直な菜穂が、皮肉ではなくてうらやましかった。なんだか少し、悔しい気もした。
体を離して、私は「じゃあ」と言った。
「これから頑張りなよ」
私は上履きを履いて、そのまま教室に向かおうとする。
すると菜穂が下履きのまま私を追いかけてきて、驚いた。
「なにやってんの」
「早川さんは、もう、練習来てくれないの?」
まるでそのことが一番気にかかっていたみたいに、菜穂は不安げに眉を寄せていた。
練習に付き合うのは発表会までという話だった。
私と菜穂はあくまで先生と生徒で、友達なんかじゃない。
でも。
「たまになら」
そう言うと菜穂は、冬の灰色の空を吹き飛ばしてしまいそうなくらい明るい笑顔になった。
やがて春が来て、私たちは五年生になる。
進級と同時にクラス替えがあった。発表された新クラスは奇しくも、菜穂と同じだった。
私たちはたまにどころか、毎日一緒にいるようになった。
放課後はやっぱり、ピアノの練習にプレイルームへ行く。
ピアノが取られてしまったり人がたくさんいた時は図書館にも足を向けた。
菜穂は文字の本を全然読まないのだけど「いつも早川さんが読んでる本を読みたい」と言い出した。案の定、菜穂はミヒャエル・エンデの『モモ』を五分も経たずに投げ出して爆睡していた。やっぱり文字の本は無理だと思った。
今更ながら、家が近いから一緒に帰るようになる。
ほとんど散りかけた桜の並木通りを歩いていたら、菜穂が私の手を取って走り出した。理由が分からなくて戸惑う私を、振り返った菜穂が笑う。水たまりに吹き溜まった花びらが綺麗な道は、駆けるとずいぶん気持ちが良い。私はただ菜穂の背を追いかけて走った。
もう私は、菜穂の手の温度を不快だと思ったりはしなかった。
それは私の冷たくなった体を温めてくれる、やわらかな手だった。
私は、以前では考えられないくらい家を出て菜穂と遊ぶようになる。
菜穂といると、家のことも親のことも学校のことも忘れてしまった。
息をするのが楽だった。
そんなふうに安穏としていていいのか、って自分に問う声があるのも分かっていた。
私はますますお姉ちゃんから置いていかれて、お母さんから見放される。
それでも菜穂と一緒にいると、私は焦りを忘れてしまう。
菜穂は私には想像できないほどの痛みを知っていて、それを何でもないと笑う。私はそのたびに、自分の痛みがどれだけちっぽけなのか思い知らされる。
どうしてそんなふうに、笑えるんだろう。
教科書には載っていない、永遠に解けない謎だった。
あるお休みの日には、菜穂と一緒に動物園に行くことになった。
その時は、菜穂と仲良くしている私のことを知ったお母さんが働きかけてくれて、菜穂の家族と私の家族が一同に会して遊ぶことになった。
菜穂のお母さんは、見た感じは美人でやさしそうなお母さんに見えた。どちらかというと菜穂のお父さんの方が、少し神経質そうで怖い感じだ。それでも、菜穂と一緒になってペンギンの泳ぐ水槽を眺める横顔は至って温厚なお父さんで、私は拍子抜けしてしまう。
夏休みになったら一緒に海へ遊びに行こう、と約束をして私たちは別れる。
遠くへ行くこと自体が久しぶりのことなのに、菜穂と一緒だったらどんなに楽しいだろう。
まだずっと先のことなのに、もうわくわくした。
早く夏になってほしい。でも、今がずっと続いても欲しくて。
日ごとに増していく日差しの強さを半分憎んで、半分待ち望みながら、毎日を過ごした。
木漏れ日の降るベンチの下で。
陽炎の揺れる通学路の途中で。
夕暮れの赤に染まる放課後の図書館で。
けれど私たちが海へいくことはなかった。
私のお母さんが家を出ていったのだ。
廊下の外は雨が降っている。七月上旬、梅雨明けはまだ先のことらしい。
プレイルームへ足を向けると、聞き慣れた旋律が耳に届く。
『きらきら星変奏曲』。
最近、その元になった曲のタイトルを知った。
『あのね、お母さん聞いて』。
つまりはお母さんのための曲。
私にはもう、痛いだけの曲。
私の足音に気付いて、曲は途中から途絶える。
「早川さん」
椅子に座った菜穂が笑顔を向けてくる。
でも、離れた場所で足を止めた私に、怪訝な顔をする。
「どうしたの?」
ここなら、菜穂の手は届かない。
私は言った。
「私、ピアノ辞めたから」
「え?」
菜穂は、何を言っているのか分からない、という顔をした。
戸惑う眼差しから逃れるように私は顔を逸らして、喉の奥から声を絞り出す。
「あんたと遊ぶのは、もう終わりにする」
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