第39話 知ってしまったらもう

 ピアノを教えて、だって?


「ふつうに嫌なんですけど」


 掴まれた服の袖を引っ張って、離すように促す。

 菜穂は袖を掴む手を離したものの、めげずに逆に詰め寄ってくる。


「今度、発表会があるんだ。できるだけ良い演奏にしたいの。だからおねがい」


「私なんかじゃなくて、ちゃんと先生に教わればいいじゃん」


「先生は、いるけど。私もの覚えが、悪くて。いらいらさせちゃって」


「私はいらいらさせてもいいんだ?」


「それは……」


 菜穂は、べそをかく半歩手前な顔をした。

 いじめたいわけじゃなかった。そういう顔をされると困る。

 私はためいきをついた。


「他にもピアノ上手い人なんているでしょ。私じゃなくていいじゃん」


「私は、早川さんがいい」


「なんで」


 すると菜穂は両手を組み合わせて、上目がちに私を見た。


「さっきの早川さんの演奏。好きだなって、思ったから」


「は?」


 ちょっと弾いてみせただけだ。

 それを好きだとか、なんだとか。


「ばかじゃないの……」


 頬が熱くなっているのに気付いて、私は顔を逸らした。

 たった一言褒められただけで舞い上がるとか。どっちがばかなのか分からない。

 大体、そうすることで私に一体なんの得があるんだ。

 なにもない。いや、ないどころか、マイナスでさえあるかもしれない。

 自分の力でなんとかしなきゃだめでしょ。

 そう思うのに、封をされたみたいに、その一言が出てこない。

 悩んだ。悩み抜いて、私は言った。


「……なんのためにピアノ弾いてるのか聞かせて」


「言ったら、教えてくれるの?」


「答え次第」 


 菜穂はしばらく悩んだ素振りを見せてから、言った。


「お母さんに喜んでもらいたいの」

 

 呆然とした。

 見放したはずの自分がいつの間にか追いついてきて、眼の前に立っているような気がした。

 私が出来ないことをこの子はやろうとしている。私よりよっぽど下手なやり方で。

 もし、お母さんに喜んで貰う事が出来たなら。

 その嬉しさを、私は知っている。

 この子は、その嬉しさが裏切られるつらさをまだ知らないのだろう。


「分かった」

 

「ほ、ほんと?」


「分かったって、言った」


「……わあ、うれしい! ありがとうっ!」


 弾けるように笑って、私に飛びついてきた菜穂は、ただうっとうしかった。

 肌に触れてくる、お気楽な人間の体温が生ぬるくて不快だった。

 ──やれるものなら、やってみればいいよ。

 唇の裏で、呟く。

 そうして、私と菜穂は放課後のプレイルームでピアノを弾くようになる。

 




 

 発表会までは一ヶ月あった。だからそれまで毎日、放課後に練習をする。

 先に授業が終わった方がすぐにプレイルームに行き、他の人が遊ばないようにピアノを確保する。

 それからは、下校時刻のアナウンスが流れるまで、菜穂の練習に付き合う。

 菜穂は未熟だった。

 ピアノに関してまだ経験の浅い私だけれど、それでも教えられることがたくさんあった。それに、根本から向いてないんじゃないか、と感じることも多かった。

 何度教えても同じところで間違えるし、こらえ性がない。じっとしていることが苦手なのだろう。

 でも、性格の真っ直ぐさがそれを補って余りある。教えには素直に従うし、分からないことは分からないとちゃんと訊いてくる。

 接するうちに、だんだんと菜穂の人となりが分かってきた。

 菜穂は活発に見えて意外と、のんびりしている。表情がゆるっとしていて、ほわん、と笑う。

 なんとなく、自分が笑えば誰かも笑ってくれるということを信じている子だと思った。

 自分を肯定する感覚に満ちている感じがした。自分が、この世に存在していていいことを疑わない。愛情をふんだんに注がれて育ったことが良く分かる。

 ひねくれた私は、そんな菜穂を見て子供ながらにどうしても思ってしまった。

 ──おめでたいやつ。






 二週間も練習を重ねると、菜穂は目に見えて上手くなった。

 最初の頃よりかなり良くなったように感じられるのに、菜穂は不満そうだ。

 今日は外で雨が降っている。演奏が止まると、代わりに細い雨音が沈黙を満たす。

 私は壁に背に座り込みながら、椅子の上でゆびさきを噛んでいる菜穂を見上げる。


「もう十分教えたから今日で終わりでいい?」


「えっ。でも、私はまだ」


「別にいいでしょ。将来プロになりたいってわけでもないんだし」


「……なりたいって言ったら?」


「無理」


「そんなこと言わないでよぉ……」


 菜穂が肩を落とした。

 集中力が尽きたらしく、椅子から降りると私の隣に座り込む。

 

「早川さんは、夢とかないの?」


「夢ね……」


 将来の夢。最近、それを考えさせられる授業が増えた。

 人気なのは、先生とか。漫画家とか。獣医さんとか。

 私にはどれもなんだかしっくりこない。

 ただ、あった方がいいかなとは思っている。何も無いよりは、先生や両親は安心するだろう。


「強いて言うなら、車を運転する仕事」


 菜穂が目を丸くした。


「どうして?」


「遠くへ行けるならなんでも良いの。家族を旅行に連れてってあげたいし」


 私がそう言ったのは、最近、お父さんの車で家族旅行に行くことが無くなったからだ。

 仕事が大変で、遠くまで運転するだけの体力が残っていないのだとか。

 お母さんとお父さんは、そのことでも揉めた。「たまには家族のために尽くしてよ」とお母さんは言い、「俺は稼いでるんだから家のことはなんとかしてくれよ」とお父さんは言っていた。

 聞いていられなくて、だから私は、大人になったら私が車を運転して旅行に連れて行ってあげる、と二人に伝えたことがあった。

 別に運転するだけなら職業にする必要はないけど、職業に出来るくらい上手くなれば、家族を旅行にだって連れ出しやすくなるんじゃないだろうか。

 私が家族を守れる。

 それはほんの少しだけ、心が浮き上がる想像だった。

 もう一つの理由は、私が単に遠くへ行くことが好きだから。でもそれは幼稚だし、ばかにされてしまうから言わない。

 

「早川さんは家族思いなんだね」


「さあね」


 煙に巻き、伸びをした。

 

「そっちはどうしてピアニストになりたいの」


「お母さんが、なってほしいって」


「ふうん」


 低い声が出た。

 菜穂の家は一人っ子だという。親から期待をかけられるのは菜穂一人しかいない。

 

「良いよね。親に応援されるとか」


 溜め込んでいた言葉が、ぽろっと口を滑った。


「うらやましいよ」


 恵まれて、応援されて、夢まで叶えて、百点満点の人生を送る人間。

 そんなやつの協力をしていたなんて。我ながら呆れる。


「応援されてるとかじゃ、ないんだけど」


「じゃあなんなの」


「……うーん。早川さんになら、見せてもいいかな」


 菜穂は周りを見回した。誰もいないことを確認するみたいに。

 困惑する私を置き去りに、こっそりとシャツごと上着をめくり上げた。


「なに、それ……?」


 菜穂の白い脇腹に、不自然なほど赤い、大きな痕が、一つ。

 皮膚の病気? いや、虫刺されとかじゃない気がする。

 見ていてなんだか、ざわざわする。嫌な予感がする。


「お母さんが、私に」


「え」


 段差につまずいて、みたいな調子で言われた言葉の意味を、私はようやく悟る。

 ピアノの先生。菜穂のお母さんのことだったのか。

 そのお母さんが、菜穂にこれを?

 がん、とハンマーで頭を叩かれたような衝撃がきた。

 言葉が出なかった。石を飲み込んだみたいだった。 

 信じられない。こんなの、だって、ひどい。ひどすぎる。暴力じゃないか。

 私の両親はこんな最低なことはしない。手を上げるだなんてこと、絶対に。

 菜穂は愛されている子なんだって思っていた。

 いや、愛されていないわけじゃ、ないのだろうか。

 分からない。

 どうして自分の娘に、こんなことが出来るのか。

 私の認識では理解が及ばない。


「知ってる人、いるの」


「いないよ。お母さんと、お父さんと、早川さんだけ」


 私の中で、色んなものごとの捉え方が崩れ落ちていく気がした。

 寒気とは違う震えが走って、喉奥で「……っ」と悲鳴のようなものが鳴った。

 菜穂は上着をきっちりとしまいこんで、そっと打ち明ける。


「ピアニストとか、遠い夢だけどさ。発表会は、絶対成功させたいの」


 やわらかな笑みが、今までとは全く違ったものに見えた。

 おめでたい奴だと思っていた。

 今なら分かる。穏やかに凪いだ瞳の奥に、黒々とした影が渦巻いている。

 それは私が当初抱いていた菜穂の印象を塗り潰す、底知れない闇だった。

 このことを誰にも相談せずに?

 私でさえ、お姉ちゃんという味方がいた。

 なのにこの子は、たった一人で。


「お願い。早川さん。もう少しだけ協力してくれる?」


 その微笑みの前に、私はうなずく。うなずくことしか出来ない。

 もう少し真摯に、菜穂の練習に付き合うことを私は決める。

 そして、発表会の日がやってくる。

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