第38話 自分ごときじゃ何も

 私と菜穂は幼馴染みだ。

 けれど小学四年生になるまでは仲良くなかった。

 ご近所の同い年ということで登下校が被り、顔を合わせることも多かったから、たまに遊んだりする程度の仲。クラスも違ったから、学校ではそんなに関わる機会がなかった。


 菜穂は、私とは住む世界が違うというと大げさだけれど、遠い人間だったことは確かだ。


 四年生の当時私が抱いた菜穂の印象は、とにかく活発でよく笑う子、だった。

 肩のあたりで切り揃えられたさっぱりしたショートヘア。品のある上等な服や小物を身に着けていて、なのに男子たちのサッカーに平気で混ざっていく奔放さと周囲の笑いを誘うひまわりのような真っ直ぐさが、いいとこ育ちのやらしさを感じさせない子。

 私はどちらかといえば、教室で大人しく本を読んだり、暇をどう潰すのかを学校の図書館で考えてばかりいた。菜穂のようにクラスの中心にいる子は、はっきり言って苦手だった。


 当時、私の家は両親の喧嘩が絶えなかった。


 最初のお母さんがまだ家にいた頃の話だ。

 私たちが寝入った後、夜遅くに帰って来るお父さんとお母さんが、寝室の薄い戸を一枚隔てたリビングで言い合いをしていたのを、私とお姉ちゃんはじっと聞いていた。

 寝室の暗闇を照らすぼんやりとした薄明かりは、お父さんが出張のお土産に買ってきたステンドガラス風のカバーがついた調光のきくランプだ。家族の誰が名付けたか「教会のランプ」と呼ぶ、その、蝋燭ほどに小さくしたランプの明かりを、私たちは寝そべりながら瞼を擦って囲んだ。

 私たちを優れた学校に送り出すことが望みのお母さんと、本人の好きなようにやらせたいお父さんは、夜ごと罵りあうように自論をぶつけあっていた。

 けんかするところなんて、見たくないし聞きたくなんかない。でも、布団の中に閉じこもって何も聞かなかったことにしていたら、どうなるか。私はもう、大人のけんかは、仲直りの握手では終わらないことを知っていた。

 行き着く先は両親の離婚。それは家の崩壊を意味する。

 だから私とお姉ちゃんは共同戦線を張り、眠気を押し殺して、両親のうちのどちらかがけんかに負けて、家を出ていこうとするのを止めていた。

「ここにいて」と両親にすがりつき、生じようとする亀裂を必死に縫い合わせて、今にも引き裂かれそうな家庭をどうにか繕いながら私たちは暮らしていた。

 何もせずにいたところで、ドラマに出てくるような笑いが行き交う家庭が出来上がることはない。先生も、親戚も、誰も助けてはくれない。

 私とお姉ちゃんがなんとかしなければいけない。


 大切なものを守りたいなら、子どもだろうと自分の力でなんとかしなきゃだめだ。


 それが、十歳の私が自分の心に刻んだことだった。

 つらくなかったかと言われれば嘘になる。

 家が壊れてしまうよりはマシ。その点で私とお姉ちゃんは合意に至っていた。救いがあるとすれば、お姉ちゃんと仲が良かったことくらい。

 けれどそんな、唯一の味方であるお姉ちゃんとでさえ、段々と見えない溝が広がってきていた。


 小学生に上がった頃から、私たち姉妹は揃ってピアノ教室に通っている。


 小学四年生の私は、中級の難易度とされるブルグミュラーにとりかかっていた。

 お母さんは、そんな私の成長を喜んでくれた。それがうれしかった。

 一方で、中学一年生のお姉ちゃんはもう少し上の難易度であるソナチネの曲を暗譜で弾けるようになっていた。

 お母さんは「さすが私の娘ね」と私にはくれなかった言葉をかけていた。

 それを聞いた途端、冷水をかけられたみたいに嬉しかった気持ちが失せた。

 ピアノを学んできた年数は同じ。差が広がったのは、私の学ぶ速さが遅かったということに尽きる。

 そこでお姉ちゃんの優秀さを、はっきりと意識した。お姉ちゃんは私よりずっと頭が良い。しっかり者だし、小学生の時は児童生徒会の役員を任されていた。

 私はお姉ちゃんほど頭がよくない。それに、役員なんてごめんだって思う。

 このままでいたら、お姉ちゃんとの差はどんどん開いていく。

 ピアノを弾けば弾くほど自分のみじめさを確かめるだけになる。お母さんが喜んでくれるのがうれしかったから弾いていたのに、これから与えられる喜びがお姉ちゃんよりも小さいのだと思うと、全部虚しくなってしまう。

 優秀な子供を持ってうれしくない親はいないと思う。

 でも、不出来な子供を持って、うれしい親はいるだろうか。

 いるわけがない。

 

 私には、両親の間を取り持つだけの価値がない。

 

 それに気付いてしまったらもう、レッスンに行きたくなくなった。

 小学四年生の放課後、私は憂鬱な気持ちで、なんとなく学校のプレイルームへ足を向けた。

 そこでピアノを弾いている菜穂と出会った。

 





 プレイルームは体育館を小さくした空間で、第一校舎と第二校舎を繋ぐ間にあった。休み時間になると、生徒たちがドッジボールや手つなぎ鬼をしに集まる遊び場であり、学年集会なんかも行われる。その、挨拶の標語のポスターが貼られた壁の一角に、古ぼけたアップライトピアノがあった。

 たまにそこで猫踏んじゃったを弾いて遊んでいる子を見かけることがある。

 でも、真面目にちゃんと弾いている子を見たのは、初めてだった。

 それも、私が弾いたことのある『きらきら星変奏曲』。

 誰が弾いているんだろうと後ろからそっと歩み寄って、驚いた。

 あの活発な宇喜多菜穂だった。

 冬の早い夕暮れが窓から差し込んで、薄いオレンジ色に照らされたその横顔は、普段の彼女とは別人に見えた。

 誰もいない放課後のプレイルームを色づけている音色は、けれど。


「…………なんか、変……」


 弾いている様は堂々たるものだけど、時々、というか結構、間違えている。

 ところが菜穂はミスをしてもそのまま弾き続けていく。演奏を途切れさせたくはないのか正しく弾き直すということをしない。やり直したくない気持ちは分かるけれど、それだとちっとも上達しない。

 この曲は何度も同じフレーズを繰り返すから、やはり同じミスをすることになる。正しく暗譜が出来ているのかも怪しかった。

 聞いている内に腹が立ってきた。


「ちょっと」


「……えっ」


 突然隣にきた私に、菜穂が演奏を止める。驚いた顔をしていた。


「ミスしたら、ちゃんとやり直しなよ」


「え、わ、私……」


 間違えたことにも気付いていないのか。

「どいて」と菜穂を押しのけて、代わりに椅子につく。

 間違っていた箇所を正しく弾き直し、次にあえて間違っていた音を鳴らす。


「分かる? あんたの弾いてたのは半音ずれてんの」


「そ、そうだったんだ」


「気付いてなかったの」


 呆れた。でも、別に私は先生なんかじゃない。それに、どんなに間違った演奏をしようがそんなの人の勝手だ。だから間違いを正したことに勝手に満足して、私は席を立った。

 すると慌てたように菜穂が声を上げた。


「早川、夕さん、だよね……?」


「そうだけど」


 まともに話したのはかなり久しぶりな気がする。

 私の存在くらいは、菜穂も意識していたみたいだ。


「知らなかった。ピアノ、上手なんだ」


 菜穂は胸の前でぎゅっと握りこぶしを作った手を引き寄せて、子犬みたいに目を輝かせている。


「……べつに」


 お姉ちゃんと比べたら、全然上手じゃない。

 それを思うと、お腹の底から冷たいものが這い上ってくる。


「そっちこそピアノ弾くとか。そんなキャラだっけ?」


「うん。まあ。……ちょっとね」


 曖昧な笑みで語尾を濁していた。

 教室で笑っている様は何も悩みなんてなさそうに見えるのに、家だと苦労しているんだろうか。だとしたら、ちょっと意外だ。

 時計を見た。レッスンの時間にはまだ余裕があるけれど、家には帰りたくない。

 どうやって暇を潰そうか。ため息をついて、歩き出そうとした時、私の服の袖を菜穂が引いた。

 怪訝に思って、私は振り返る。


「何?」 


「あっ、あのね。……おねがいが、あるの」


 菜穂はおずおずと言った。


「私にピアノ、教えてくれない、かな……?」

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