第37話 はぐれかけの星の音
「そろそろいかなくちゃ」
ベンチから菜穂が立ち上がった。
「運転手さんを待たせたらいけないから」
その口ぶりで察した。
「やっぱり、あの運転手さんって菜穂の事情を知ってるんだ」
菜穂が二、三度瞬きをした。何かを恐れるような渋い顔で、目を逸らす。
「海に着いたら全部話すって言ったのに」
菜穂は表情や仕草で感情を伝えたりするのがうまい。でも逆に言えば、簡単に他人に感情を知られてしまうくらい、分かりやすい。
「言いたくないなら、聞かないよ」
「そんなんじゃないの」
「じゃあなんなの」
菜穂は答えず、背中を向けて歩き出した。私は立ち上がって、その手を掴んだ。
冷たいガラス細工のようなゆびさきは、けれどまだ、しっかりと菜穂の輪郭を形作っていた。
私が隣に至ると、菜穂は息を短く吸い込み、吐き出す。
「ゆうちゃんに色々話したら、揺れちゃいそうで怖かったんだよ」
「まあでも、いいや」と菜穂は肩をすくめて、ぎこちなくはにかみを浮かべた。
「あの運転手さんには、教えてもらったの。今の私がなんなのか」
「……やっぱり、あの運転手さんは常識の外の外にいる人ってわけね」
それでも、まったくの無軌道で非常識な存在というわけじゃないだろう。
思い返してみれば、あのバスの乗客には共通点があった。
あすちゃんも。佐伯先生も。はくちゃんも。晴も。おそらくは私と菜穂も。
死に近づいた人ばかりだ。
あのバスは、そんな人のために夜を走っていた。
その目的や理屈は、昼の世界に生きている私には理解が出来ない。
「きっとさ」と菜穂が呟く。
「あの人は、私が消えちゃう前に連れてってくれようとしてるんだと思う」
どこまでも遠くへ。
天国とか、そう呼ばれるようなところへ。
そこには安息が待っているのだろうか。菜穂を傷つける悲しみも痛みも何もないのなら、喜ぶべきなのか。
でも、二度と会うことは出来なくなるのなら。
「……そんなの、やだよ」
私のつぶやきに、菜穂は答えなかった。
ただ私の手を握り返すだけだった。
私たちは公園を出た。出入り口傍に設けられていた喫煙所には、何かの死骸みたいな吸い殻が、どこへも行けずに地面に散らばっていた。
それから私たちはバスに戻った。
はくちゃんは一人で先にバスに帰っていたようで、後部座席で丸くなっていた。放置してしまって申し訳なかったけれど、それを気にしたふうではなさそうで、近づいた菜穂に気がつくとすぐに膝上に駆け上った。
今日何度聞いたか知れない『発車します』のアナウンスがかかり、バスが身を震わせてゆっくりと駐車場から動き出す。
これが私の最後の乗車になる。
でも、菜穂は違う。菜穂はどこまでも遠くへ行ってしまう。
止めたところで無意味だ。そのままでいたとしても菜穂はいずれ消える。
私に出来ることはなにもない。
無力感に包まれた手足が重くて、体ごと座席に深く沈み込んでいくみたいだった。
ほどなくして、小さな頭が私の肩に触れて、そこを居場所に決めたように動かなくなる。
菜穂は眠っていた。
触れあえばこんなにも確かな存在を感じ取れるのに、その腕はもう肘のあたりまでが透き通って、背景に溶けている。
「……ねえ」
菜穂は答えない。本当に眠っているのか。
私は淡い栗色にけぶる髪を、指で梳く。幽かな金木犀の匂いが拡散する。
何度頭を撫でても、頬をさすっても、菜穂が起きる様子はない。
「菜穂はほんとに、それでいいの?」
体が透明になって。得体の知れない場所に連れさられることを飲み込みながら、菜穂は眠っている。平気でいられるはずもないのに、私を頼ろうとはしない。
喜ぶべきことのはずだった。
菜穂が自分の手で何を掴み、何を手放すのかを決めたこと。
「ちょっと、ごめんね」
断って、はくちゃんを抱えて組み合わされた菜穂の両手を、そっと解いた。
すると、透明な右手のゆびさきが動いて、はくちゃんの背中を探り当てる。
菜穂の意識はないはずだ。寝息が聞こえている。
けれど、ゆびさきは動きだす。まるで別の意志を持っているみたいに、生き生きと。
時にスタッカートを刻んで跳ねる。閃く速さでアルペジオを連ねて、聞こえない旋律を描き出す。見ているだけで、頭の中に曲が聞こえてくるみたいだった。
背中を指で弾かれているのに、はくちゃんは恐ろしいくらい寛容だ。猫の機嫌を損ねるどころか安らぎを覚えさせるほどの繊細な運指ということ。
音楽なんてどうでもいいと言った人間の、することじゃない。
菜穂は、消えかけた体でさえ、無意識下で演奏をしている。
大切なものを、まだしっかりと抱えている。
菜穂はそのことを打ち明けなかった。
寂しさよりも怒りが勝った。私に黙って全部一人で決めて、振り返りもしない菜穂が。そうあってほしいと願ったのに。
ゆびさきは止まらない。今もまだ動き続けている。
そこでふと、菜穂が何の曲を弾いているのかに気付いた。
『きらきら星変奏曲』。
小学生のあの時も、弾いていた。
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