第36話 無力な私は帰るだけ

 初めてだ。

 菜穂から、こんなに冷たい目を向けられたのは。


「私を知ったようなこと、言わないで。私の心を、勝手に決めつけないでよ」


 低くて静かな声に凄みがあった。

 振り返って思う。

 私は、菜穂のことを自立できない人間だと決めつけてきてはいなかったか。

 心を麻痺させて笑う菜穂を、なんとかしたいと思っていた。母親の言いなりになって、逆らえもせずに傷つけられている菜穂が見ていられなくて。

 でも、私は菜穂を助けてやりたいと、本気で思っていたのだろうか? お母さんに捨てられて、勉強も中途半端に投げ出して、衝動的に家出をした体たらくの私が?

 所詮、いつかはなんとかしたいとか、その程度の強度の願望にすぎなかった。

 そして事態は、いつかなんて悠長を許さず、どうやらとっくに進んでいた。おそらくは取り返しもつかないほどに。

 ──笑っちゃうよ。

 最初から分かっていたじゃないか。

 私が、弱くて、脆くて、逃げ出した、みじめな人間だってことは。

 口ばかりで、何一つとして救えていない。

 菜穂は、そんな私に頼らなければたち行かないほど弱い人間じゃない。

 今こうして私に反論しているのが、何よりの証拠だった。

 

「……じゃあ菜穂は、自分がこうなったことを後悔してないの?」


「してない」


 叩きつけるように言い切って、菜穂は立ち上がった。

 その拍子に蹴倒された椅子が、がたんと音を立てた。


「私は音楽なんて辞めた。お母さんのことだって、」


 菜穂がテーブルの上で握りしめた手は、力が入って白くなり、震えていた。

 

「お母さんのことだって、どうだっていい」


 しん、と沈黙が落ちた。

 やがて、周りで食事をしていた人たちが何事かとざわつく気配が広がる。

 その様子を見て取った菜穂が、足早に出入り口へと向かう。

 

「菜穂!」


 すぐに立ち上がって、その背中を追いかけた。

 本気で走って逃げられたらとても追いつけない。

 でも見失うことはなかった。菜穂は湖の突端にある公園に向かっていた。

 そこは、なだらかな下り坂の斜面に、手入れのされた芝生の絨毯が広がる公園だった。

 街灯に照らされた周囲は、ぼんやりと明るい。湖面を渡ってやってきた風が暑気を払いのけ、走る私の首元を撫でていく。

 公園に入ってほどなく、湖を見下ろすベンチの一つにぽつんと菜穂が座っているのを見つけた。

 足音で私と気付いただろうけど、菜穂は逃げはしなかった。

 隣に腰掛けて、息を吐く。


「震えてるじゃない」


 うつむいて丸くなった背中が、寒気を覚えているみたいに、小さく縮んでいた。

 菜穂が顔を上げて、恨めしげな目を向けてくる。


「今からでも、菜穂が元に戻る方法はないの」


「……聞いて」


「どうしてそんなふうに、受け入れてるの」


「いいから、聞いて」


 菜穂が自身のワンピースの胸元を掴み、深呼吸をする。


「私は、いつもゆうちゃんに助けられてた。友達になった日から、ずっと今まで」


「これからだって、助けるよ」


 菜穂は首を振った。

 私はベンチに手をついて、体を菜穂の側に傾ける。


「なんで。もっと私を頼ってよ。何を抱えているのか知らないけど、菜穂が一人で背負うこと、ない。私なんかじゃ、頼りないかもしれないけど、でも」


「頼りないなんてこと、ないよ。けど、そういうわけにはいかないの」


 菜穂は首を振る。


「誰だっていつかいなくなる。どれだけ大切にしてたって、最後がきたら別れなきゃいけない。一緒にいたくても。離れがたくても。……ゆうちゃんにも、分かるよね」


 私たちは、たくさんの人達の終わりに触れて旅をしてきた。

 その恐れや、悲しみや、過ちや、覚悟を、目の当たりにした。

 わからないわけがない。


「私は、ゆうちゃんと最後に一緒にいられた。それだけでもう、いいんだよ」


 菜穂は手を夜空にかざす。

 透明なゆびさきに、無数の星屑の光が住む。


「本当は、私がこの先どうなっちゃうのか、怖いよ。怖くてたまらない。でも、こうなったことを後悔はしてないの」


 ざ、と周りの木々が風に揺れる音が耳につく。

 晴に請われて公園へ向かった時『ゆうちゃんがあの時のことを思い出したら』と菜穂は言った。

 私は何かを忘れている。

 おそらくは、菜穂が消えかけているのと、とても関係がある出来事を。

 分からないのは、その結末に菜穂が納得していること。後悔をしないと宣言していること。

 自分が消えてしまうことを受け入れるだけの、出来事。

 そこまで考えを進められれば、おのずと分かった。


「もしかして、私のせいで、菜穂がそんなことになったの?」


 菜穂が答えずに、うつむく。

 でも、肯定しているのと同じだった。

 バスに乗る前に、その何かがあった。

 私はぎゅっと目を閉じる。急いで、一つ一つ、記憶の水路を辿っていく。

 バスに乗る直前。私たちは橋の袂にいた。

 その前は、家を出たところで、菜穂に見つかった。

 家の中では、ヨルシカのアルバムを聞いていた。

 音楽を聞いて、家出を決めて。

 その前は。

 その前は?


『……手を!』


 唐突に、さっきバスで見た夢の光景が瞼の裏で火花のようにひらめく。

 思わず頭をかきむしった。

 だめか。だめだ。そこから先のことが思い出せない。

 下校して電車に乗った記憶は残っている。家でアルバムを聞く前、駅から帰宅するまでの間に何が起きたのか。その記憶が飛んでいる。

 強いショックを受けた心が防衛本能を働かせ、トラウマにならないよう記憶を深いところに閉じ込めてしまった。そんな理屈が頭に浮かぶ。

 逆に言えば、思い出せないほど深刻な何かが私の身にふりかかったということだ。

 あるいは命を落としかねないような、致命的な。

 それじゃ、まるで晴とおなじだ。

 ……晴とおなじ?


「私は、もしかして──」


 もしかして、本当の私じゃないのか。

 晴のように、二人目の自分なのだとしたら。

 あながち、突飛な話じゃない。

 私のスマホに依然として電話の一本も入ってきていないのが推測を裏付けている。

 いくら私が早川家にとって疎ましい存在だろうと、世間体までおそろかには出来ない。娘の家出を家族が放置していたとなれば騒ぎになるだろう。それは避けたいはず。私がこの時間まで家に帰ってこないとなれば、さすがに電話くらい入れてこなければおかしい。メッセージをぽんと入れて放置するのは不自然だ。

 しかし、今こうして家出をしている私を家族が認識していないのだとしたら、一向に連絡が来ないことにも納得がいく。あるいは家族は、私のスマホが第三者の手に渡ったのだと考えているのかも知れない。

 きっと本当の私は、晴のように長い眠りについている。

 その推測を口にすると、菜穂がうなずく。


「何かのきっかけで本当のゆうちゃんが目を覚ますんだと思う。そうしたら、晴さんと同じように今のゆうちゃんは消えて、あるべき場所に帰るんだよ」


「そのきっかけが、終点に着くこと……」


「たぶんね」と菜穂が答える。

 根拠があるわけもないけれど、私が仮初の存在であるとして、いつか終わりが来るのだとしたらそれは確かに家出の終わり以外ないように思えた。

 そして家出の終わりを迎えたその時、私は元の私になり、菜穂はいなくなる。

 おそらくは永遠に。

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