第35話 見えない未来と君のいる現実

 バスが速度を落とし始めたのを感じて、私は起き上がった。

 車窓を見た。オレンジ色の街灯が辺りを照らす広い駐車場に、バスは滑り込んでいく。深夜ということもあって乗用車の数はまばらだけれど、整然と並んだトラックが目に付く。仮眠を取っているのだろうか。

 広い駐車場の中でも目立たない端っこに駐車したバスから降りる。このバスの外観は明らかに市民バスだから、周りと比して明らかに浮いていた。それでもこのバスを気に掛ける人は一人もいない。

 どうやらここのサービスエリアは、特別に規模が大きなサービスエリアのようだった。風が涼しいから高い場所にあるかと思ったのだけれど、看板に記された地図を見たところ湖の突端に位置しているらしい。上下線が共通の施設になっていて、裏手には湖に面した広い公園があり、有名な観光スポットになっているのだとか。

 ひとまず替えの下着を購入し、トイレに着替えに入った。元々着ていたスウェットに袖を通すとほっとした。服が乾いているだけでも気分がだいぶ違う。

 外で待っていた菜穂が、私を迎えて宣言する。

 

「じゃ、夜食にしよ!」


「……あんたもお腹空いてたのね」


 二十四時間営業の食堂は小綺麗な佇まいで、今が夜だと感じさせない明るさだった。湖に面した窓際の席を確保し、食券機で食べたい半券を購入した。

 私はあおさそばを頼んだ。菜穂はカレー。どっちもかなりお手頃な値段だった。

 完全に気分が持ち直したわけではないし、食欲なんて湧かないと思っていたのに、出汁のいい香りが漂ってくるときちんと空腹を意識させられてしまった。串カツといなり寿司セットを食べたのが遠い昔のように感じられる。

 コップの水を一口飲んで、いざ食べようとすると器を菜穂に取り上げられた。

 私に用意されていたはずの箸でそばを一掴み掬い、私の口の前に差し出してくる。

 それが意図している意味を思って、せっかく湧いた食欲が少し失せる。


「自分で食べるって」


「まあまあ病人は遠慮しないで」


「やりたいだけでしょあんた」


 主張するのも面倒くさくなって、私は大人しく差し出されるままに適温となったそばをすする。あおさの風味が絡んだそばは確かにおいしいけれど、味どころじゃない。対面で、妙ににこにこしている菜穂の笑顔が邪魔をしてくる。


「私のも食べる?」


 意志を尋ねておきながら、私が答える前にカレーを掬ったスプーンを差し出していた。

 仕方なく食べた。良く噛んで、水も飲んで、とか言葉が飛んできそうだ。

 テーブルの下のはくちゃんにはコンビニで買ってきた猫缶を与えた。今にも消えようとしているのに食欲があるなんてやっぱり不思議だ。

 その上菜穂はデザートのみかんロールケーキまである。一切れをフォークで口に運び、寂しそうな目をして言う。

 

「残念だなぁ」


「おいしくなかったの?」


「逆だよ。こんなにおいしいもの、いまさら知っちゃうなんてさ」

 

 終わりを受け入れたようなその言葉は、けれどほんの少し震えているように聞こえた。

 私はそれに気づかないふりをして、言った。 


「私だって、家出がこんなに楽しいこと、もっと早く知りたかった」


「……ゆうちゃんはまた家出するつもりなの?」


「するだろうね」


 透明なゆびさきでつままれた菜穂のフォークが、かつりと皿の底をつつく。


「やっぱり、帰りたくないんだ?」


「だから家出したんだよ」


 家にいたくなかった。

 というより、家にいる資格がないと思っていた。

 最初のお母さんが出ていき、ほどなくして再婚したお父さんと始めた第二の生活。

 私は家族の中にはいないもののように身を縮めた。出来損ないの、捨てられてしまった自分がお荷物になってはいけないと思ったから、なるべく家族が集まるリビングには顔を出さず、学校に帰ってからすぐに自室にこもった。

 新しいお母さんのことが、どうしても受け入れられなかった。

 そうしている内に、お姉ちゃんは堂々と、そして健やかに新しいお母さんと家族仲を育みはじめていた。最初のお母さんに捨てられたショックを引きずっていた私とは違って。

 それが決定的な差を生んだ。

 次第に両親の興味関心がお姉ちゃんに移りがちになり、余り物として見られることが多くなった私は、それを悟られまいとしている両親にむしろどんどん傷つけられていった。

 いや、被害者のような言い方は正確じゃない。

 私が最初から打ち解けられていればそんなことにはならなかったのだから。

 私は自分で勝手に両親を遠ざけて、勝手に傷ついただけ。

 後から、お母さんにだけは振り向いてもらおうとしたって、当然、遅かった。

 だからお父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも悪くなんかない。

 早川家を乱しているのは、ただ一人。

 早川夕。

 たった一人だけだ。

 

「分からないよ」


 物思いに沈みそうになったところで、菜穂のことさらに明るい声に引き上げられた。


「将来は、家族と笑いあえてるかもしれないし、楽しく生活出来てるかもしれない」


 そんな無闇に明るい未来は、想像も出来ない。

 想像さえ出来ない未来が運良く手元に落ちてくることなんて、ありえるだろうか?


「本当にそんな明るい未来があるって思える?」


「思わなきゃ、叶わないよ」


 その通りだとは思った。

 そう思いたいかどうかは、別として。

 

「叶えたいと思ってるのは、菜穂の方なんじゃないの?」


「……どういうこと?」


 再び、菜穂のフォークが皿の底をつつく。

 どんなに体を痛めつけられても、菜穂はお母さんのことを一度も悪く言ったことがない。菜穂が言う「愛情」は、けれど本人がそうだと言うのであれば、紛れもなくそうなのだろう。 

 

「菜穂は、本当は」


 続きを言おうか言わまいか迷った。

 でも、今言わないと、菜穂は最後まで誤魔化すだろうと思った。

 今、言葉を飲み込んでしまったら、手遅れになる。

 だから、思い切って、言った。


「本当は、帰りたいんじゃないの?」


 皿の底をつく菜穂のフォークの動きが止まる。

 その半透明のゆびさきが震えているのを、私は認める。


「さっきからやけに明るいふりしてるけど、本当は、怖いんでしょ?」


 従容と受け入れている。そんなふうに見えた。

 でも、そうじゃない。そんなわけない。当たり前だ。

 ピアノも、お母さんのことも、将来のことも。

 晴に「もういいんです」と答えていたけれど、そんな一言で諦められるほど軽いものじゃなかったはずだ。

 どんな目にあって消えかけているのか知らないけれど、なりたくてなったわけじゃないだろう。

 大切な家族のところに戻りたい。

 そんなの、当たり前のことだって、私にも分かる。

 菜穂の透明なゆびさきから、フォークが落ちた。

 からん、と硬い音がして、息を呑んだ。


「ゆうちゃんに私の何が分かるの?」


 聞いたことのない、静かな冷気を孕んだ菜穂の声音が、私の耳朶を打った。

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