第11話 また

「ごめんなさい」


 菜穂の話は、まるで荒唐無稽だった。


 突然目の前が暗くなり、ふと気がついたらバスの後部座席に座っていた、という。


 つまり、急に消えた理由は、自分でも分からない。

 なにそれ。だった。

 説明をそのまま受け止めて現実的に考えるとすると、菜穂は一度私の傍で突然気絶し、何者かの手でバスに運び込まれたということになる。

 誰がなんのためにそんなことをしたのか不明だし、それを運転手さんが見咎めなかったはずもない。

 当然、納得出来ない。納得は出来ないけれど、本当に申し訳無さそうな顔をして頭を下げている相手に、それ以上追求しようとする気が失せていた。

 先生をからかいたくてこっそりバスに乗り込み、けれどやりすぎたことを途中で後悔した。そんなところだろうか。

 

 今、バスは路肩に寄せられた状態で停まっていた。

 

 運転手さんは、私と佐伯先生のただならない様子に緊急性があると思ったのか、私達がバスの車内に乗り込んでからも停車したままでいてくれている。

 守らなければならない運転時刻もあるだろうし、公共交通機関を私情で停めることがあってはならないことだということは私にも分かっているけれど、運転手さんは文句一つ言わない。ひたすらに無言で私達のやりとりを放置している。すがすがしいくらいの無関心ぶりは、先生すらも困惑させている。

 とはいえ、今バスに走り出されたら困る。お咎めなしということであればと素直に甘えてしまっているのが現状だ。正直、後が怖い。損害賠償とかされないだろうか。


「その、先生。すみませんでした。本当に……」


 菜穂が恐縮そうに先生に頭を下げた。

 佐伯先生は軽く汗ばんだ額を手の甲で拭うと、自身のスカートの破れ目に手を当てた。あまり見ない方が良いとは思ったけれど、あの速度を実現した先生の足につい、目がいった。至って普通な、色白の肌。

 

「……そうね。まさか私も、白状したそばから誓いを破るなんて思わなかったわ」


 でもまあ。と、佐伯先生はうつむいた菜穂の頭をそっと撫でる。


「今思えば、私の誓いは、けじめをつけるフリをしていただけだったから」


「フリ……?」


「走らなければ、過去を思い出さずに済むでしょう。でも、そんなの無駄だって気付いていたから。どうしたって、ごまかしたって、思い出さないわけにはいかない。

 だから、あなたのために誓いを破れることが出来て、かえって良かった」


 あっさりと割り切ったようなことを、先生は口にする。

 きっと私達の前だから、そういうふうに言っているのだろう。

 

「じゃあ、帰りましょうか」


 切り替えるように、先生がわずかに声を明るく作る。

 ちくりと、胸に痛みが走る。

 私は、逃げない、と菜穂に告げた。捕まるまで、遠くまで逃げてやると。

 すると菜穂は顔を上げた。


「ごめんなさい。それは出来ないんです」


 その声音の温度のなさに、私は少し戸惑う。

 先生も、ここへきて断られるとは思っていなかったのか、わずかに言葉を失っていた。理由を求めるように、視線が私に向かう。

 私は黙って首を振った。私だって、ここまで頑なな理由が分からない。

 私と交わした家出行の約束を守るため、なのだろうか。

 だとしても、先生相手に正面きって抵抗するような底力が菜穂にあるだなんて、私は思いもしなかった。  

 佐伯先生は軽く下唇を噛んで、しばらく黙っていた。


「分かったわ」


 一瞬、えっ、と喉奥で声が漏れた。

 分かった、って。

 家出を、許すってこと?


「早川さん。約束出来る? 危ないことはしない。絶対に帰って来るって」


 問いただしたいことや、未成年を夜に放り出す危機感、先生としての職責、いくらでも私達を引き止めなければならない理由はあるはずだ。

 その全部を飲み下し、先生は見逃すと言う。

 ひょっとすると、とても度量のある人なのかもしれない。

 あるいは、無理やり連れ帰ろうとしたところで、私達のためにはならないと考えてくれたのか。並々ならない決断だと思う。バスを追いかけてくれたことも含めて。

 なんとかうなずいた私の肩を、ぽん、と佐伯先生の手が軽く叩く。


「じゃあ、約束よ」


 あっさりと言い放って視線を切ると、佐伯先生は踵を返した。

 降車口の手前で一旦停まると、改めて振り返り、見つめてくる。

 菜穂が立ち上がって、私の隣に並んだ。

 それを認めた先生が、学校ではあまり似つかわしくない別れの言葉を口にする。

 

「また会いましょうね」


 さよならではなかった。

 先生の言葉を借りれば、星の数ほど人はいて、その大半の人とは関わらないし関わっても二度と会うことはない。

 同じ人に再び会えることなんて当たり前だと感じてしまうけれど、それは学校や家での狭い人間関係の間でしか生きてこなかったからそう感じてしまうだけで。

 本来は、ありふれた別れの中に、再会という奇跡の中の奇跡があるのだろう。

 だから先生の言葉を、願いをかけるおまじないのようだと思った。

 ステップを降りた先生の背中に、私は言った。


「先生は、ちゃんと、先生だったよ」


 ぷしゅう、と空気の抜ける音と共にバスのドアが閉まる。

 発車します、とアナウンス。

 闇夜の奥へ遠ざかっていく先生が、微笑みを浮かべて手を振るのが見えた。

 



 




「本当、ごめんね」


 何度も繰り返す隣の菜穂は、見ていてどうかと思うくらい身を縮めている。

 申し訳無さを表明するためか、私との距離を座席一人分空けていた。

 あれだけ突拍子もない行為に及んでおいてべたべたしてきたらそれはそれで腹立たしくなるだろうけれど、今はそれが心が離れたことを示しているようで少し落ち着かない。


「嫌になったとか、そういうわけじゃないんだよね」


 え? と菜穂が首をひねる。本気で思い当たるものがない顔だった。


「私のわがままに付き合わせたから、嫌になって帰っちゃおうとしたわけじゃないよね、ってこと」


「ないない! そんなこと!」


 風を巻き起こしかねない速度で、菜穂が手を左右に振る。


「ゆうちゃんと一緒に家出したいのは、本心だよ。本当に、本当。あれ突然のことすぎて、私にも何がなんだか分かんなくて」


 ぐったりと背中を丸める様子は、枯れかけの花を思わせた。車内の冷房におされてか、金木犀の香りも今は遠い。


「でも、私だって、説明できませんでした、で納得なんて無理だし、怒って当然だよ。分かってる。だからほんとに、ごめん……」


 謝罪を繰り返す機械になってしまった菜穂に、私はため息をつく。

 どれだけの仲の良い人間同士であっても、間に何も挟まない、なんてことはないと思う。親子だろうと、恋人だろうと、友達だろうと。

 突然いなくなった菜穂に、怒りを覚えたというのは事実だし、困惑もした。

 でも、結果的にではあるけれど、菜穂は私の家出行に戻ってきた。

 

 だったら、もう、それでいい。

 

 これからいくらでも待ち受けている理由のない理不尽に比べれば、謝罪をもらえるだけ贅沢というものではないだろうか。その程度のことを飲み下せないような狭量な人間でありたくはないし、何より。

 そっと座席に手をついて腰を浮かせ、空いた距離を埋める。

 私が傍に至っても、菜穂は気付いていない。

 だから、飲みかけのレモネードのペットボトルを、俯いた額に押しつけた。

「ひゃっ」とその冷たさに驚いて菜穂が栗色の髪を跳ね上げ、目を白黒させた。


「な、なにっ」


「許すから」


 目を見られなかったけれど、なんとか言うことが出来た。







「もう、勝手に遠くにいかないで。私のそばにいて」


 





 菜穂の目蓋がぱちぱちと瞬く。その鼻先を中心として、淡い赤に色付く。

 口角が持ち上がり、目が光を纏う。

 長く日差しを待ちわびていた花が、ゆっくりと太陽に向けて花弁を開くように。 




 バスは、次の夜の街を目指して走る。

 車窓の外は、夜祭りの気配がしていた。

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