第10話 風を呼ぶ
「待って、早川さん」
周囲を見回り、道を横断しようとした私を、後ろから先生が腕を掴んで引き止めた。
「このあたりは谷地の縁沿いにある道路だから、道を外れると危険よ。脅かすつもりではないけれど、何件か転落事故が起きている」
汗ですっかり冷えた背中が、また少し寒気を覚える。
周囲は街灯がほとんどない。田畑のあるのは道の片側だけで、谷地がすぐそばにあることなんて知らなかった。暗闇が深すぎて見えなかったのだ。
依然として、菜穂の気配はない。煙のように消えた、という表現が当てはまる。
いたずらにしては、悪ふざけがすぎる。
思ったより早く先生がきてしまったから、とっさに身を隠したとか?
どちらにせよ、いい加減出てきてくれないと困る。
「菜穂!」
私の叫びは、暗闇に吸い込まれて消えた。
必死な私に、佐伯先生はこれがいたずらではないと考えてくれたようで、一緒になって呼びかけてくれた。
それでも菜穂は現れなかった。
焦りが募る。胸の中に強い不安が兆した。
もし、菜穂が事故にあってしまったら。
想像することさえ怖く、悪寒めいたものを感じてぶるりと震える。
「落ち着いて」
先生が私の背中にそっと触れた。
それで、無意識に体をうつむけていたことに気付く。
「もしかしたら、すぐに戻って来るかもしれない。しばらくじっとしていましょう。下手に動くと、私達まで危ないわ」
冷静な大人の判断が心強かった。
軽く深呼吸をして「はい」と小さく頭を下げた。
「宇喜多さんは、スマホは持っていないの?」
「いいえ。スマホ持ってないんです。スマートウォッチは許されてましたけど、今日は着けてきてなかったし」
それだって、健康管理や最低限の連絡手段として与えられているにすぎない。いわば菜穂に嵌められた首輪だ。
先生は目つきをやや硬くして、慎重に問うた。
「宇喜多さんのお家は、厳しいの?」
「厳しいなんてものじゃないです」
菜穂の家は、他人が羨むくらい裕福で華やかだ。
お父さんは外国と取引する貿易関係の仕事をしているとかで、お母さんは元音楽関係の仕事をしていた美人。
一人娘の教育に費やすお金も時間も、一般家庭とは比べ物にならないだろう。
しかし、だからこそ、行き過ぎてしまったのか。
洗脳という言葉がある。
相手の思想を、自分の意に沿うように作り変えること。
菜穂の、どんなにひどいことをされてもお母さんのことを責めない姿勢は、それを思わせた。
ベンチに座って黙り込んでいると、先生は自販機の方に立ち寄って、何かを購入していた。
手渡されたのは、レモネードの小さなペットボトル。
お礼を言って、軽く口をつける。冷たく甘酸っぱい風味が喉を抜ける。少しだけ落ち着いた。
佐伯先生は黙って傍に佇んでいた。何も促しはしなかった。
そうしていると、私の中で静かに水が満ちるように、言葉があふれた。
「私、自分のことでいっぱいいっぱいで」
我ながら言い訳じみた言葉に、舌の根が苦くなる。
「菜穂のこと、心配ではあったんですけど。本人が平気そうだったし、まあいいやって、思っちゃってて」
許せなかった。
私の得られないものを享受して、笑っている菜穂が。
「菜穂は、いつも私のことを気にかけてくれてたのに」
私が心配だから、家出に付き合ってくれた。
私が頑張っていることを、ただ一人だけ褒めてくれた。
高みに属する人間からの施しに思えてしまって受け取りがたかったけれど。
うれしかった。
なのに私は。
上体を倒して、抱えた腕の中に頭を埋め、呻くように私は言葉を吐き出す。
「友達失格ですね。私」
すると佐伯先生は「……これからする話は、秘密にしておいてほしいのだけれど」と前置きして切り出した。
「実を言うとね。私、近頃も辛かったの。過去のことが何度もフラッシュバックして、いっそ終わりにしたいって思ってしまって」
降ってくる先生の声は耳に心地よい響きなのに、穏やかさはとはほど遠い内容で、私は思わず顔をもち上げる。
「このあたりってね、そういう人のためのスポットになっているの。これまでにも何度か立ち寄ってみたりもしている。ほんと、先生としてどうかと思うんだけれど」
やけに詳しいと思ったら、そういうこと。
固まった私の顔を見て、先生は「驚かせてごめんなさい」とおぼろげに苦笑する。
「でも、助けられたわ。いつもそうなの。誰かが私をすくい上げてくれる。大学生の時は友人に。今はあなたたちに」
「私が?」
「そうよ」
上を見上げた佐伯先生が、見て、と私の視線を促す。
言葉を失った。
黒い夜空を背景に、粉砂糖が振りまかれたような星々が頭上を覆っていた。
先生の手が夜空に伸ばされる。その指先が、星を結ぶように動く。
指の軌跡に、星と星が見えない糸で繋がるように錯覚する。
「世の中にはたくさんの人がいるわ。今見えている星よりもたくさんの人が。そのほとんどに、私達は一生関わることはない」
佐伯先生は手を下ろすと、星の光を瞳の中に閉じ込めるみたいにゆっくりと目を瞑った。
「その、ほんの一握りの出会いに救われることもあると思うと、繋がりや縁って本当に不思議よ。世の中に奇跡があるとするなら、出会いなんだと私は思うわ」
隣で見上げた顔は遠くを見つめていた。
「菜穂さんや早川さんの事情は、私には良くは分からない。けれど、あなたたちの繋がりが特別なものだというのは分かる。とても強く分かるの。だから、大切にしてほしいわ。失敗をしてもつまずいてもいいから」
私の髪を、そっと伸ばされた先生の手が撫でていった。
そんなことをされたのは、本当に久しぶりだった。
「私、先生に何もしてないですよ。ただ黙って、話聞いただけで」
「生徒に自分の話をちゃんと聞いてもらえることが嬉しくない教師なんていないのよ」
先生って、いい先生なんですね。
少し失礼なことを口にしたのに、先生は微笑んで首を振った。
「私はまだまだ、ちゃんと先生になりきれてはいないから」
多数の生徒から向けられている、冷たい視線を意識してのことだろう。
そのとき、光が暗闇を切り裂いた。
ヘッドライトだ。目が眩んだ。手庇を作り、その車の様子を伺う。
バスだ。
重いエンジン音で夜闇を震わせながら、カーブを億劫そうに曲がり、こちらへと近付いてくる。
フロントガラスの上部には電光板が光っていて、LEDの文字で行き先を表示していた。よくある巡回バス。車内には煌々と明かりが灯っているけれど、座席はがらがらだ。
私達が乗ってきた巡回バスは、時間的にとうに去ってしまっただろうから、別のバスのはずだ。
けれど、なぜかそんな気がしなかった。漠然と、既視感があった。
そうして、バスが私達の横をすれ違った時だった。
「え」
最後部の座席の窓際に、菜穂が乗っている。
私達を見て、なぜか、驚いたような顔をした。
「菜穂」
状況の異常さと脈絡の無さ、そして疑問が頭を占めて一歩も動き出せなくなる前に、闇雲に足を前に踏み出した。
暗闇の中を、先ほどとは違って、全力で駆ける。
車体の放つ光があるから、夜道でも下が見えないということはない。
思ったよりも、バスは早くはなかったのが僥倖だった。
上下に揺れる視界で、バスのリアガラスに張り付くようにして菜穂がこちらを見ているのを把握する。
息が苦しい。膝が痛い。でも、追いつける。このままいって、運転手さんに。
「あ……!」
道が直線に入った。滑り出すようにバスが加速する。あっという間に距離が生まれる。手を伸ばしても到底届かない。分かっていてもそうしないわけにはいかない。
駄目だ。息が続かない。限界だ。足も痛い。離れていく。遠く。致命的に──
風が、私の後ろから駆け抜けた。
目を疑った。
人に翼は生えていないはずだ。でも、飛ぶような速さは鳥を思わせた。
地を一歩蹴りだすごとに、ぐん、と軽やかに加速していく。
バスの後部にあっという間に追いつくと、あろうことか抜き去った。
色のついた白い風。それは、パンプスを脱ぎ捨て、スカートを破き、疾走する佐伯先生だった。
自分に立てた誓いを破るのは簡単じゃなかったはずだ。
けれど先生は、きっと一秒も迷わなかった。でなければ、追いつけなかった。
へたり込んだ私の前で、ゆっくりとバスが速度を落とし、停まる。
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