第9話 どこまでだって駆けれると
私達は夜道を駆け出した。
「早川さん……!?」
先生の驚いた声が、背中越しに聞こえた。
先をゆく菜穂の、揺れる栗色の髪を追いかけて、私は足を動かす。
夏の夜のぬるい空気を肩で切るように走り出すと、風が涼やかに首元を抜ける。
右手を握る、ひんやりと冷たいてのひらを、汗ばむ掌で握り返す。
甘くて幽かな金木犀の、菜穂の髪の匂いを辿るように、走る。
菜穂が何を考えて逃げ出そうと考えたのかは分からない。
一度は私の家出を止めた菜穂だ。
家に帰るというのなら、その方がいいと思っていたんじゃないのか。
私は、先生になら連れ戻されたって構わないって、本気でそう思っていた。
でも一方で、菜穂の判断に従った方がいいと、直感が告げた。
それに、先生は走れない。
私達が走って逃げれば、追いつかれることはないのだ。
菜穂がふいに振り返って、息を弾ませながら言った。
「なんか、なついね!」
意味がわからずに、私は叫び返した。
「はあっ? 夏!?」
「懐かしい、の! ほら、昔よく、走ったじゃん。一緒に。手つなぎ鬼のとき!」
菜穂は懐かしんでいるようだけれど、私はそれどころじゃなかった。
道には、古ぼけた街灯がこころもとなく等間隔に立っている。押し迫る闇にかろうじて抵抗しているみたいにただ足元を照らすだけで、そこから離れて走る私達の周囲には黒々とした夏の闇がひたすらに漠と広がる。
こんな闇の中をバスに乗ってひたすらに進んで来たのかと思うと、いまさらに恐ろしくなる。
虫の音とか、雑草かゴミ袋かなにかを踏んづけた音とかに、いちいちびびる。
墓地にでくわしたら、悲鳴をあげてしまうかもしれない。
そんな得体のしれない闇の中を、菜穂は明かりもなしにぐんぐんと先をゆく。
度胸がありすぎる。心強いけど、ちょっと不安になるくらい足取りに迷いがない。
やがて街灯の明かりさえもが頼れなくなった。降り注ぐうっすらとした月明かりと、ほんの時折通りかかる車のヘッドライトがささやかな灯台となって道路の白線を浮かび上がらせ、私達の道を示した。
一人でこんな道を歩こうとしても、歩けるものじゃない。おっかなすぎる。三歩で尻込みしてしまうだろう。
でも今は、どこまでも走ってゆけるような、不思議な力が手足に満ちている。
その理由を思う時、少し複雑な気分になった。
私は菜穂を心配していた。でも、実は逆だった。
菜穂の方が、私を気遣っている。私のほうが、菜穂に頼っている。
あまり認めたくはないけれど、事実だ。
こうして手を引かれて走っていること自体に、なんの抵抗も覚えない自分がいる。
正直に言えば、楽しいと思ってしまっている。
身体の底に溜まっていた澱のような黒いものが、息をするたびに空気中に放散して、腕と足の動きがどんどん軽くなっていくような感覚があった。
とはいえ、さすがにもう限界が近い。
は、は、と細かく息を吸い、吐く。合間に、呼びかけた。
「菜穂! ぎぶ! もうむり!」
「おっけい」
菜穂がようやく手を離す。
どうやら、目的地というか目標地点があったみたいだ。
そこは、自販機が幾つか固まって設置されている、大きなバイパスの脇によくある休憩用の駐車スペースだった。自販機の脇には花壇とベンチがある。
目に眩しいくらいの光の溜まり場になっていて、きっと菜穂はこれを目指して走ったのだろう。待望の光ある地だったけれど、残念なことに虫たちが活発に飛び回っていてあまり近づけない。
私と菜穂は光の勢力圏にかろうじて入ったところで、よろけるようにして足を止めた。車止めのポールに手をついてもたれる。
いきなり思いっきり走ったせいで酸欠気味になったのか、頭がくらくらしていた。膝に手をついて、汗ばむ額を手の甲で拭う。そばで平然としている菜穂がうらめしかった。汗一つかいていないように見える。
「なんであんた、そんな、平気なの……」
「ゆうちゃんが貧弱なんだよ」
なんだと、と思うけれど反論を諦めるくらいには息が上がっていた。
昔から菜穂は運動をしないことにおいては私とためを張るくせに、やけに基礎体力が高い。
しばらくして、落ち着いたところで私は尋ねた。
「で、どういうつもり。もう先生には家出だってバレてるし、逃げる意味ないよ」
先生が私達の親に連絡をして、それで終わる。
逃げれば逃げるほど、出血が増えるだけだ。
最悪、警察を呼ばれてしまうかもしれない。想像するだにぞっとする未来だった。
けれど、そうして後ろ向きになった私の心を、菜穂の言葉が揺さぶった。
「……やっぱり、もう少し、ゆうちゃんと一緒にいたくなっちゃった」
また明日会えば良くない?
なんて物分かりのいいことを言うほど、私は真面目な人間じゃなかったし野暮でもない。
菜穂だって、いつまでも遊んでいたいと思う夜もある。そういうことなのだろう。
私だって、出来ることならまだ帰りたくはない。
それに、菜穂がお母さんにここまで反抗するなんて、よっぽどなことだ。
平気で門限を破ったり、お母さんからの仕打ちを恐れない一連のおかしな態度は、家で何かあったからなのかもしれない。
どうせ私には失うものなんてない。
積み上げてきた成果も。
「大人しく利口な妹」という評価も。
かろうじてあったプライドも。
この一夜に、全部丸めてゴミ箱にぶん投げた。
いっそ、とことん逃げてやろうか。
もっと遠くへ。
もっともっと、逃げてやろう。
なんとなれば、この夜が明けるまでだって。それはさすがに、ムリだろうけど。
それに、もう少し家出に付き合って、と菜穂に言ったのは、私だ。
「分かった。いいよ。逃げる」
「い、いいの?」
「後のことは覚悟してよ」
「うん!」
菜穂はぱっと笑った。
「あ、それとね。先生から逃げたのは、それだけが理由じゃないよ」
理由に思い当たって、私はほんの少し笑った。
「……先生に、走ってもらいたいから?」
「うん」
先生は、自分は嘘つきだと言った。
でも、そんなことわざわざ宣言する必要なんてない。
だって、私達はみんな嘘つきだ。
違いがあるとすれば、ついた嘘をどう背負うかだろう。
あるいは忘れる。誤魔化す。とぼける。嘘を嘘で重ねる。
先生は、そうはしなかった。とても真面目だと思う。
痛ましいと思うけれど、好ましくもあって。
怪我が治っているのなら、本当は、走りたいはずだ。
ずっとずっと、走りたかったはずだ。
それを罪悪感で一生封じ込めるのは、かなしすぎる。
私が言えたものじゃないけれど、自分には、嘘をつかないでほしい。
小学生からいままで、先生に対してそんな思いを抱いたことは一度もない。ぽろりと、素直な思いが、口を滑った。
「私、佐伯先生のこと、けっこう好きかも」
「え。浮気?」
「……浮気って。ただの感想なんですけど。っつか浮気って何」
「いやあ、ゆうちゃんから好きって言われたいなって」
「言わないけど。そもそも、なんで言わなきゃならないの」
「はぐぁ」
と、胸を押さえてよろめいていた。大げさな奴。
その時、足音がして、私は来た道を振り返った。
暗がりから、すうっと、自販機の放つ光の中へ、影が伸びる。
佐伯先生。険しい表情をしている。
本当に歩いてここまで来たらしい。さすがに早足だったろうけれど、息は切れていない。私達から五歩ほど離れたところで足を止めた。
「大人しく、ついてきてくれると思ったんだけれど」
「まさか。私がころりといくと思ったんですか?」
「……大人の手段に訴えてもいいの?」
先生の声が低くなった。
親に連絡するぞ、と脅しているのだ。
「いいですよ。覚悟してます」
「そんなに、家に帰りたくないの」
「はい」
即答に、先生は怯んだ。
優しい先生だ。どうしていままで、気付かなかったんだろう。
「先生にも、そういう時があったんじゃないですか?」
「もう子供じゃないもの」
私達を突き放すような、けれど間違いなく、自分に言い聞かせるような言葉だった。
「じゃあ仕方ないですね」
私はふたたび走り出そうとした。
そうして、隣の菜穂を促そうとして、足が固まる。
あれ、と声が零れた。
周りを見回す。煌々と光る自販機。古びた街灯。深い夜空と、その輪郭を切り取る木々。浮かび上がる細い月。
私の世界に見えるものは、それだけ。
菜穂がいない。
目を離してから、十数秒くらいしか経っていない。
まさか、二手に別れようとか、そういう意図だろうか?
だとしても、黙っていなくなったりする?
ついさっきまで、一緒にいたいとか言っていたのに。
困惑していると、先生も不審に思ったのか、「どうしたの?」と尋ねてきた。
「菜穂が……。ついさっき、そこにいたんですけど」
ひょっとすると嘘を疑われるかもしれないと思ったけれど、素直に話した。
すると先生は、私の想像の斜め上のことを言った。
「私は菜穂さんが逃げたところは見てないわ」
「え?」
「あなたたちを最後に確かめたのは、バスの通路で一度振り返った時に見たのが最後。だから菜穂さんがどこにいったのかは、分からない。見ていないから。別れて逃げたわけじゃないの?」
「そうじゃないです。一緒にここまで走ってきたんです」
「……本当に?」
「本当です」
偽っていないことを証立てるために、強く言い返した。
「ひとまず、周りを探しましょう。いいわね?」
私はうなずいた。
無性に背中がざわついた。
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