第8話 嘘/防衛本能
「だから先生は陸上を辞めたんですか」
私の言葉に、佐伯先生は首を振った。
「違うわ」
「え? でも、大怪我だったんですよね……?」
「ええ。手術が必要なほどのね。それから三ヶ月も車椅子生活を余儀なくされたし、私も周囲も、もう走れないって、そう思っていた」
ところがね、と先生は枯れたようなため息をつく。
「リハビリをしていく内に、お医者様から驚かれたの。脅威の回復力で怪我が治りつつあるって。今はまだ無理は禁物だけれど、きっと元のように走ることが出来る。それを聞いたお父さんは私の隣で涙を流して喜んでいたわ」
「でも、私はもう陸上をやりたくなかった」
「蝋燭の火が吹き消えたみたいに、上を目指す意欲が私の中から失われていたの」
先生が言葉を止めて、私と菜穂を順繰りに見つめた。
「どうしてだと思う?」
煌々と明かりを放つコンビニが、近くを通り過ぎる。
佐伯先生の影が一瞬で伸び、移ろい、消える。
私は月並みなことしか言えなかった。
「怪我がショックだった、から?」
「うん。それも、間違いじゃないわ」
先生は、模範解答を答えた生徒のために用意したような微笑みを浮かべる。
「もう少し言うと──怪我をした私は、自分のことを客観的に見ることが出来た。そこで私は、すっかり走ることが嫌いになっている自分に気付いたの。誰かと競い合うことは楽しかったし、良い記録が出ることに喜びを感じもしたけれど、それは私が最初に抱いた走ることの楽しさからはかけ離れていた」
「子供だって笑われるかもしれない。でも私は、辛いことがあっても苦しいことがあっても、純粋に走ることが楽しかったあの頃の喜びを心の中で温めていたからこそ、乗り越えることが出来た。だから、その喜びがすっかり凍てついて駄目になってしまっていたことに気付いて、一歩も歩き出せなくなったの」
私は自分の腕を反対の手で掴んで、粟立つ肌をおさえた。
私にも、楽しくて始めたことなのに、もっと上手くなりたいと上を目指していたら最初の気持ちを見失って結局辞めてしまった習い事の経験があった。
たぶん、意識していないだけで、上を目指したりするうちに嫌になっていくことが、これまでにもたくさんあったと思う。
「怪我はどんどん良くなった。元通りに歩けるようにもなった。来年の春までには部活に復帰することも可能だとお医者様は言った」
「それでも私は、もうひとかけらも陸上をやる気はなかった。友人や両親の期待を裏切るのは苦しかったけど、それでも」
「だから私は」
先生は言葉を切って、深呼吸をした。
そして、胸のつかえを吐き出すみたいに、はっきりと告げた。
「だから私は、嘘つきになった。怪我が治っているのに、痛いと嘘をついた」
「そう言えば、誰も無理は言えなかった。むしろ同情さえしてくれた。才能ある人間の不運として受け止めてくれた」
「言い出せなかった。もう、私に期待してほしくない。ただ自分の楽しみのために走りたいって、それだけのことが」
「私は、小さな人間だったから。自分の弱さが恥ずかしかったの」
挫折や怪我を経験して、もう一度立ち上がることがどれだけ難しいことなのか。
私には想像もつかない。
でも、それが一握りの強い人間でなければ不可能であるということは分かる。
そしてきっと佐伯先生は、多くの人がそうであるように強い人間ではなかった。
苦肉の策だったのだと思う。
先生はきっと必死だった。襲い来る理不尽な現実から自分を守ることに。
私と同じ。
嘘をついたとしても、誰にも責められないはずだと、私は思う。
でも、先生自身が、それを許せないのだろう。
「そうして一つの嘘を吐いたことから始まって、私はたくさんの嘘を重ねるようになった。嘘が嘘と分からないように、嘘を重ねたの」
「勉強がしたいから、と退部届けを出した。遠くに行きたいからと、なるべく部活の同僚とは被らないような遠方の大学を選んで進学をした」
「進学はしたけれど、私には何も目標がなかった。胸の中にぽっかりと空いた空洞を埋めるようにして、あなたたちではきっと考えられないくらい、毎日を自堕落に過ごしたし、自分の身体を粗末に扱った。たくさん夜遊びをしたし、危ないことにも手を出した」
「それって……」
菜穂が思わずといったように聞いた。
聞くなよ、って思ったけれど、心の底では聞きたかったから止める言葉がすぐに出てこなかった。
「ありがちなところで、お酒ね。二日酔いのまま登校することは珍しくなかったし、そもそも頭が痛くて講義をさぼってばかりいた。それと今は吸っていないけれど、煙草。彼氏が吸っていて、合わせるために無理をして一日に何箱も吸っていた。
彼氏はギャンブルが大好きな人だったから、私のお金まで注ぎ込むようになったところで別れてそれっきり。もっとひどい話もたくさんあるけれど、想像にお任せするわ」
さらりと先生は言っているけれど、とんでもない話ばかりだ。どうして平然としていられるのか分からない。
「ちょっと露悪的な話だったわね。ごめんなさい」
私達が渋い顔をしていることに、先生はほんの少しだけ忍び笑いを漏らした。
「ともかく、そんな毎日で、かつてゼロコンマ一秒を削ることに多くを捧げていた自分を思い出すとどんどん心が荒んでいって、私はますますひどい生活にはまり込んだ。こんな人生なんてどうでもいいって、自分を投げ出した。自分から自分を駄目にしていった。それが心地よかったの」
「そんな時に、かつての部活の同僚と会う機会があった。本当は、どの同僚とも会いたくなかったんだけれどね。その人は特別仲良くしてくれた人だったし、どこからか私がひどい生活をしてるって聞いたらしくて、誤魔化す事ができなかった」
「そこで同僚から何気なく『志乃は人にものを教えるの上手だったよね』って言われたの」
「褒められて期待されたりすることがもう嫌になって陸上をやめたのに、私はその言葉がうれしくて縋ってしまった。こんな自分でもまだ何かがやれるかもしれないって思ってしまった」
「そうして、それまでの爛れ切った生活をすっぱりと断ち切って、私は先生になることを決めた。不足していた単位を取り直して、死にものぐるいで勉強をした。高校生の思い出を捨て去って新しい自分になろうとした時と同じことをしたのね」
佐伯先生は、祈るようにぎゅっと強く両手を組み合わせて、それに額をつけた。
「私は、嘘まみれの人間。虚飾だらけの先生。それを見透かされるのが怖くて、いつも、あなたたちにさえ心を許せないでいる」
でも、と佐伯先生はかすかに顔を上げる。
「私は、あなたたちが話しかけてきてくれたり頼ってくれたりすることを、うれしく思っているの。どうしてもうまく表には出せないけれど、それだけはわかってほしい。だからこそ、こうして自分の話をすることが出来たんだと思うから」
そうして先生は、話の結びを示すように「以上よ」と告げた。
「一応言っておくと、このお話には、嘘をついてはいないから。それは、安心して」
私は後悔していた。
お姉ちゃんに似た人間という理由で毛嫌いしていた自分を、罵りたかった。
分かっている。先生は、お姉ちゃんとは違う。
先生の話は、重かった。
ずしりと胃が沈みこんだ気がした。
目標もなく、ただ高みを目指した先にある未来。
進路に行き詰まる私を、先生が意識して話さなかったわけはない。
こんなふうにならないで、と先生は願いを込めて話したのだ。
人生を投げ出すような人間にはならないで、と。
けして大げさな心配じゃない。
だって私は、今まさに自分を投げ出している。
「……っ」
息が、詰まった。
励ましの言葉も、御礼の言葉さえも、何一つ見つからなかった。
そもそも私みたいな子供が励ましを言ったところで、薄っぺらな響きにしかならない。先生だって、そんな言葉は要らないだろう。
だから、一つだけ聞きたいことを尋ねた。
「先生はもう、走らないんですか?」
先生は下唇を噛んで、首を振った。
「どんな人の前でも、どんなことがあっても、私はもう走らないと決めたの。それが、嘘をついた代償だから」
「真面目すぎるんじゃ……」
「本当に真面目な人間なら、道を踏み外したりはしないわよ」
さて、と先生は居住まいを正した。
そうして手を伸ばし『止まります』のボタンを押した。
『次、止まります』の車内アナウンス。
「次の停留所で、私は降りるわ。あなたたちも連れていく。きちんと家まで送っていくから。いい?」
突然の宣言に、私は固まった。
最初から、そうするつもりだったのだ。
こんな話を聞いた後で、先生に逆らおうとする意欲なんて起きない。もしかしたら、そういう感情を抱かせることまで考えて話したのかもしれない。
計算高い佐伯先生らしかったけれど、裏切られたような気分だった。
あくまでも佐伯先生は、先生として私達に接していた。
友達としてではない。その一線を踏み外したりはしなかった。
仕方ない、とも思う。
ここで先生が私達を見逃したら、問題になるかもしれない。
バスの振動音が、黙り込んだ私達の間に満ちた。
「……ごめんなさい。ふたりとも」
真摯に頭を下げた先生に、私達はだまりこくったまま、視線を交わしあった。
先生は、私達の家出を止めたいだけなら、適当に煙に巻けば良かったはずだ。
何もここまで赤裸々に話す必要はなかった。
それでも、すべてを投げ出して話してくれた。私達を子供扱いせずに。
佐伯先生に連れられるなら、まあ、悪くない。
「……分かりました」
やがてバスがゆっくりと速度を落とし、止まる。
ぷしゅう、と空気を吐き出す音がして、ドアが開く。
先に先生が立ち上がって、通路の先を行った。
通路の真ん中に差し掛かったところで、私達を振り返る。
「……いこう」
菜穂に囁いて、私は腰を上げた。
菜穂はうなずきもせず、私の後に続く。
私達三人は、バスを降りた。
残暑のぬるい空気が、私の肌を撫でた。りん、りん、と虫の音が暗闇から聞こえてくる。田舎の田んぼ道。そのど真ん中にある停留所らしかった。
周囲に人家はほとんどない。
遠くまで来た気がしたけれど、でも、まだどこか、道には見覚えがある気がした。
短い家出だったな。
ひなびた停留所を照らす街灯の明かりを見上げて、私は思った。
これからお母さんの元に帰るのは、ひどく憂鬱だった。
先生には、菜穂の事情を話した方がいいかもしれない。その上で黙ってもらおう。
今からならば、まだ、菜穂もなんとかなるかもしれない。
先生が私達を振り返って、ついてくるようにと目で促す。
その後に続こうとした時だった。
菜穂が私の手を掴んで、駆け出した。
「逃げよう! ゆうちゃん!」
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