第7話 まともなふり
「嘘?」
私が問い返すと、先生はうなずく。
そうして、口を開こうとして、うつむいた。
「……ごめんなさい。こういうこと、生徒に話すのは初めてなの」
声が震えていた。
あの佐伯先生が緊張している。
「あの、嫌だったら」
「嫌なわけじゃないわ。……私の話なんか聞こうとしてくれる人なんていなかったから、ちょっと戸惑ってしまったの」
佐伯先生の私情が気になっている生徒は多いけれど、個人的な話を聞きだそうとする生徒はまずいない。
あの冷たい視線であしらわれてしまうかと思うと、そんな気はとても起こらないのだろう。もしかすると、同僚の先生たちからも敬遠されているのかもしれない。
「何から話したものかしら。ああ、そうだ。ちょっと待っていてね」
佐伯先生は車窓を見遣った。半透明の鏡となって私達の姿を映し出す車窓の向こうには暗闇が満ち、人家の明かりは遠い。
先生はそれを確認すると、座面に手をついて自分の身体をいざらせた。
前座席の背もたれと、座った座席の背もたれとで挟まれた空間。
先生の姿は車窓の外からか、私達側からしか見えない。
なにをしているのだろう。
私と菜穂は顔を見合わせた。
その時だった。
先生は突然、履いていた右のパンプスを脱いだ。
スカートを捲り上げ、持ち上げた足を座面に立てる。
私達に見せつけるように、すらりとしたその脚を、眼の前に曝け出す。
あまりにも急な事すぎて、衝撃と刺激とが強すぎて、私は固まった。
混乱する私達に、佐伯先生はほんのわずかな微苦笑を浮かべる。
「驚かせてごめんなさい」
「……っくり、しましたよ。なんなんですかいきなり」
もしかしてこの人は痴女か何かなんだろうか。
だとしたらやばい。やばすぎる。
菜穂なんか、息さえも忘れてしまったように凍りついている。
けれど佐伯先生は私達の反応を喜ぶでもなく、淡々と自身の足首を指さした。
「ここ、見える?」
足に、何かあるらしい。
私は気を取り直して、隣の菜穂を肘でつついた。
びびっていた菜穂は、ようやく落ち着いてきたのか。私の腕にひっつきながらも、おそるおそる佐伯先生の様子を窺おうとしている。
背を伸ばして、前方の運転手さんの方を見た。
先生の身体は、座席の背もたれに遮られ、バックミラーに映っていない。
車窓側からも、先生の背中で見えない。大丈夫だ。
私は意を決して先生ににじり寄る。座面に立てられた足に目を向ける。
あ、と声が出た。
「縫った痕、ですか」
ストッキング越しでも分かるほど、それは大きな傷痕だった。
くるぶしからふくらはぎにかけて、縦に長く白い痕が伸びていた。
これを見せたかったのか。
菜穂が目元をぎゅっと寄せた。
「痛そう……」
「見た目だけだから、安心して。今はもう完治しているから運動に支障はないの」
「もしかして病院の用事って」
「ええ。完治したけれど一応、定期的に検診をしているの」
先生は足を下ろすと、パンプスを履き直した。
乱れたスカートを手で直し、何事もなかったかのような顔で続ける。
「この怪我を負ったのは、私が高校生の時。ちょうどあなたたちと同じくらいの時ね。当時の私は、陸上部の短距離走選手だったのよ」
「佐伯先生が、短距離走選手? 英会話部とかディベート部とかじゃなくて?」
先生は、ふ、と息を吐いた。
「ええ。インターハイにいったこともあるのよ」
「まじですか」
目を尊敬の光でいっぱいにする菜穂に、佐伯先生はわずかに目元を和らげる。
「辞めちゃったし、一回きりだったけれどね」
「や、でもすっごいですよ! インハイって、相当じゃないですか」
そこまでの成績を誇っていたのなら、おのずと将来もスポーツに関わるような仕事に就きそうに思える。
けれど佐伯先生は、英語担当教諭という仕事に就いた。
望まない仕事や、まったく未経験の分野の仕事に就くことがありふれたことだということくらいは、私も知っている。
でも、佐伯先生は自分が陸上選手だったという過去を、生徒である私達に一度たりとも話したことがない。
授業終わりのホームルームで自分の近況を話すことはあったけれど、過去の話を聞いた覚えは一切ない。
過去の栄光をひけらかしたくなかったというよりも、注意深くその話を避けていたように、私は感じた。
先生は、背筋を伸ばした姿勢で、両手を膝の上に揃えた。
粛々と、唇が開かれる。
「私は、幼い頃から走ることが大好きだったの」
「家の近所に大きな森林公園があって、飼い犬を連れてよく森の中を走ったわ」
「春の日は桜の花の下を。
夏の日は雨に濡れた緑陰の中を。
秋の日は色づいた紅葉の絨毯の上を。
冬の日は雪を抱いたライラックの並木道を」
「あの頃は、足を動かせば動かすほど周りの景色がどんどん流れていくのが楽しくて仕方なくて、いつまでも走っていられた。その時の記憶が、私の原風景」
「中学に上がった頃、元陸上選手だった父の勧めもあって、私は走ることを陸上という競技として活かすことに決めたの。幸いなことに、私は恵まれていた。スポーツに強い家系だったし、裕福な家だったから望めば望むほど良い環境が手に入った。何よりも周りからの理解があった。だから、好きなだけ自分を鍛えることが出来た」
「結果は少しずつついてきて、私は高校一年生にして県大会で表彰台に立ったの。期待の新人として、新聞にも載ったわ。喜んだお父さんの顔や、褒めてくれた友達の言葉を今でも覚えてる」
「二年生になってから、私はますます実力を伸ばした。県内では敵なしだったし、順当にインターハイに進むことが出来た。結果は望んだものではなかったけれど、次は入賞確実だって、周りも私もそう思っていた」
そこで先生は、一息ついた。
たたん、とバスが揺れて、先生の端正な横顔を、髪の房が覆い隠した。
「インターハイが終わって、私は自分を追い込んだ。県大会で結果を出した時、お父さんは飛び跳ねるくらい喜んでくれたのに、インターハイで入賞を逃してしまった時はひどく肩を落としていたのがずっと頭に残っていたの」
「期待に応えられなかったのが悔しくて、私はトレーニングの量と質を高めた。次こそは名前を残せるくらい、結果を出すと自分に誓って。
そして二年生の秋、部活の練習でグラウンドを走り込んでいた時だった」
□
九年前の秋だった。
「志乃?」
友人の言葉に、佐伯志乃は顔を上げた。
高校のグラウンド横にある、陸上用のトラックの上。
アップの外周を終えたところで、志乃は違和感に気付き、うずくまっていた。
手でおさえた足首が、じん、と熱を持っている。
「もしかして、膝痛い? テーピングする?」
「ううん。大丈夫。ありがと」
笑顔を浮かべて、志乃は立ち上がる。
その場で軽くジャンプしてみる。
何か変だと感じるくらいで、明確に痛みがあるわけじゃない。
だったら練習を辞めるわけにはいかない。
自分は器の小さな人間だと、佐伯志乃は思う。
少しでも立ち止まったり、成果が出なかったりすると、焦ってしまう。
自分に自信が持てないのだ。
冷静に過去を振り返ってみれば、そんなに焦ることはないはずだった。
インターハイに行ったことは大きな糧になったし、きちんと練習を積み重ねていけば成果がついてくるというのは経験で分かっている。
そう思っていても、期待や応援の声を耳にすると、不安になる。
積み上げた努力も鍛え上げた身体も、憂慮を振り払うだけのよすがにはならない。
才能があるともてはやされて良い気になっても、上には上がいるものだ。
現在、志乃は高校二年生。チャンスはもう、多くはない。
こんな違和感程度で、立ち止まっていたら上には一生追いつけないだろう。
何より、かけてくれた期待を、裏切ってしまう。
「じゃあ次、佐伯いくぞー」
レーンの向こう端で、コーチがストップウォッチを振り上げた。
志乃は、「はい!」と答えて、クラウチングスタートの姿勢をとる。
脇に立った後輩が、スタートの声掛けを始めた。
「よーい」
息を吸う。止める。
「はい!」
合図。地を蹴った。
一歩ごとに、景色がぐんぐん後ろへ流れ去る。昔よりもずっと早く。
けれど今、そのことに感慨は浮かばない。
ただ誰よりも早く。それだけ。楽しいとかは、思わない。
コーチの姿が近付いてくる。
息が辛い。苦しい。でも、あと少しで、
急に、身体がつんのめった。
前のめりに倒れ込む。トラックは合成ゴムで出来ているから、身体を打ってもすごく痛いということはない。
理由がわからずに、志乃は突然言うことを聞かなくなった自分の右足を見た。
スパイクを履いた右足が、接着剤で固められたみたいに動かない。
何が起きたのだろう。
うずくまっていると、周りの友達が駆け寄ってくるのが見えた。
「志乃!? 大丈夫?」
「……うん、だいじょ──」
言いかけて、それがついに、やってきた。
『痛い』
志乃の頭に、その二文字が何千何万もの数で押し寄せた。
倒れた。声にならない叫びをあげていた。
呼吸をするたびに、身体全体が辛い。は。は。と、浅くしか息ができない。
その痛みの原因が右足首だということに、志乃はようやく気付く。
担架もってこい、とコーチの叫ぶ声がぼんやりと聞こえた。
次第に鈍麻していく意識の中で、志乃は思った。
私は、壊れてしまったんだ。
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