第6話 聞かせて
菜穂が囁いた。
「ねえ、もしかして、あの人って」
「うちの担任。佐伯先生」
「……わお。やっぱめっちゃ美人だよね」
こんな時でも菜穂は呑気だった。でも私の心臓はばくばく鳴りっぱなしだ。
最悪だ。
今すぐバスを降りる選択肢は、なし。
バスの電光板に表示されている現在の時刻は、夜の二十時を回ろうとしている。
ポケットのスマホは沈黙を保っていた。
私はよく塾の自習室や公共施設で二十二時まで勉強している。家にこの時間に帰っていないことは珍しくはない。お母さんからは、まだ放っておかれている。
「逃げよっか?」
「だめ。ここで逃げたら家出だってバレる。私はいいけど菜穂はやばいでしょ」
「気にしなくていいのに」
菜穂は、こっちの気など知らずに、笑う。
つまさきを踏んづけてやろうかと思った。
事態の深刻さを、菜穂は少しも分かっていない。
先生が私達の家出を認識するとなると、今回の件は、個人の懐に収まるような件では済まなくなる。
きっと、私達の問題行動を案じた学校側が、私達の両親に何らかの働きかけをする。たとえば家庭訪問。三者面談。周りの生徒にヒアリングもするかもしれない。
そんな、学校を巻き込んだ大事に発展してしまったらどうなるか。
菜穂には、二度と問題行動を起こさないような「教育」が、お母さんから施されるだろう。骨身に刻まれるような。
どうせ菜穂のお母さんにはこの夜の脱走がバレるし、なんならもうバレているだろうけれど、学校を巻き込むようなことだけは、いけない。
私は、一度だけ菜穂を見た。
ぶざまな私のことを「すごい」と言ったその唇を見た。
いまさらに「つらい」と告げたその唇を見た。
「絶対、逃げない」
嘘で切り抜ける。それしかない。
私はスウェットのスボンで手汗を拭った。
佐伯先生は私達の前まで歩み寄ってきて、切れ長の目を細める。
「……早川さん。それとあなたはE組の宇喜多さん?」
名字を呼ばれた菜穂がびっくりしていた。
佐伯先生と菜穂とは、同じ高校であるという以外に、接点がないはずだ。
中学ならまだしも高校となると、別クラスの先生と顔を合わせることなんてほとんどない。しかも、マンモス高ゆえにクラス数は十を超えるから、一学年の生徒数は二百以上だ。
「良く知ってますね」
「先生だから」
佐伯先生はさらりと答えた。
もしかすると、先生は学年の全生徒の名前を把握しているのかもしれない。その労苦を思うと気が遠くなるけれど、優秀な佐伯先生にとってはなんでもないのか。
そこでバスの運転手さんが「発車します」と告げた。
気がついた佐伯先生は、座席二人分のスペースを空け、私たちの隣に座る。
揃えた膝を向け、温度のない視線を投げかけてくる様はまるで放課後の再現だ。
そして先生は、至極当然の疑問を口にした。
「こんな夜更けに二人でどこにいくの?」
きた。
私は平静を装って言った。
「私のおばあちゃんちに、菜穂と一緒に行くところなんです」
かなり苦しい嘘だった。
親類の家に行くというのなら、夜更けの外出の言い訳としてはまだ許容される範疇かもしれないが、友人を連れている意味が分からない。そこを詰められたら、嘘を重ねる必要が出てくるわけで、さらに苦しくなる。
佐伯先生は、薄い笑顔を浮かべる。
「そう。気をつけてね」
その視線と声音の冷たさは、私を怯ませる。
紛い物の言い訳を、全てを見抜かれているようで。
私はなんでもないことのように言った。
「先生は、このあたりに家があるんですか?」
「いいえ。病院に用事あってね」
停留所は病院前だった。
地域ではもっとも大きな、総合医療センター。
病気なのだろうか。うかつに踏み込むのもためらわれて、私は口をつぐんだ。
すると先生は、手を合わせて、菜穂を見た。
「そういえば宇喜多さん、先月のコンクールは本選まで行ったのよね。おめでとう」
私もだけれど、菜穂はもっとびっくりしていた。
佐伯先生が、菜穂のことをここまで把握していたなんて。
「ありがとう、ございます。うれしいです」
声音がこわばっていた。明らかに、嬉しそうではなかった。
嘘が下手すぎる。
「次は入選間違いなしね」
「……」
そこで黙りこくってしまった菜穂に、佐伯先生は軽く首をかしげた。
「菜穂さん?」
私は肘で軽く菜穂をつつく。
菜穂はぎゅっと唇を噛んで、うつむいている。
口を開けばボロが出てしまいかねないから、黙っているほうがマシだと思ったのか。賢明な判断だ。
私は気遣ってる風を出すために、菜穂の背中を撫でさすった。
「ごめんなさい、先生。菜穂、ちょっと疲れてるみたいで」
「そうなの? 大丈夫?」
佐伯先生は、身体を少し前傾にして、菜穂の顔を覗き込んだ。
菜穂は緊張した面持ちで、かすかに顎を引く。
「……平気なら、いいけれど。条例では、十八歳以下の男女が保護者の同伴なく深夜に外出することを禁止しているわ。夜遊びはほどほどにね」
「はい……」
菜穂がうなずいていた。
遅れて、私の頭が真っ白になった。
私は確かに「おばあちゃんの家にいく」と言ったはずだ。
夜遊びをしているだなんて、一言も言っていない。
ひっかけだ。
まんまと引っかかった菜穂はやっと気付いたのか、青い顔をして彫像のように固まっている。
「やっぱり、そう……」
佐伯先生は表情を一切変えずに、私を見た。
バスの車内灯を跳ね返す眼差しは、ナイフみたいに冷たく、硬い。
なんて冷たい目をするんだろう。
「嘘をついたのね」
心臓が、うるさいくらいにばくばく鳴っていた。
ぎゅっと、奥歯を食いしばった。冷や汗が止まらない。
もうどんな言い訳も通用しない。これ以上嘘を重ねても、何にもならない。
「ごめんなさい」
私は頭を下げた。下げずにはいられない。
佐伯先生は、私より何枚も上手だった。
全面降伏だ。所詮私じゃ、完璧な大人にはかなわない。
でも、ただで転んでやるものか。
「私のことは、いいです。でも、菜穂のことは、言わないでください」
隣で、菜穂が息を呑むのが分かった。
全部捨てるつもりで、出てきたはずなのに。
まったくぶざまだ。
ほんとうに。
ちくしょう。
うなだれていると、私の肩に、触れる手があった。
顔を上げると、佐伯先生の目とあった。
その目が、戸惑っているように見えた。
「早川さん。あなたをだますようなことをしたのは謝るわ。でも、責めているわけじゃないの。真意が知りたかっただけなの」
「え……」
「それに、私に夜遊びや嘘を責める権利なんてないもの」
どういうことなのか。わけがわからない。
私と菜穂が途方に暮れていると、先生はほんの少し、口角を持ち上げた。
夜に溶けていってしまいそうな、寂しい笑顔だった。
その瞬間だけ、先生が、私達と変わらないようなただの女の子みたいに見えた。
そんなはずがないのに。
でも、ひどく気になった。
もう背負うものもない。
そう思うと、言葉が自然と口を滑った。
「先生の話を、聞かせてくれませんか」
佐伯先生は、驚いたように口を小さく開いた。
「私の話? どうして?」
「ほんの暇つぶしです。……私達、家出をしているので」
白状すると、先生はほんの少し、表情を険しくした。
けれどすぐに、元の微笑を戻して、私を見つめる。
「……いいわよ。正直に話してくれたお礼に、話しましょうか」
佐伯先生は、一度深く息を吸って、目を閉じた。
再び目を開いた時、先生が纏う空気が、変わっていた。
「私は、嘘と虚飾にまみれた人間なのよ」
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