佐伯先生編
第5話 頭が良いあんたなんかに
車窓の外はすっかり見慣れない街の景色になっていた。
大きな川沿いの、夜の奥へ真っ直ぐに伸びるバイパスを、バスは走っている。
川とは反対側に立ち並んでいるのは、きらびやかに電光板を光らせるパチンコ店に、平べったい形をしたよくあるでっかいホームセンター。平日だからか車通りは少なく、田舎ということもあって、ひどく静かだ。
「ゆうちゃん、あれ見て」
車窓側に座っていた私の膝をまたぐように菜穂が身を乗り出し、外を指差す。
菜穂のてのひらは、私の太ももに触れていた。
ひんやりしていた。ずいぶん温度が低い。
そうして触れられていると、なんだか、落ち着かなくなる。
「あそこの喫茶店、昔ゆうちゃんと私の家族で一緒に行ったよね」
「そだっけ。ってか重いからどいて」
「お、重い……」
菜穂はショックを受けた顔をして固まった。
菜穂は平均よりもいくらか上背がある。体つきも恵まれているけれど、けして太っているわけではない。ただ、間食が大好きだから、本人は常々気にしている。
菜穂は私の太ももに乗せていたてのひらをそっと引っ込めて、神妙に言った。
「ゆうちゃん、運動しよう。腕ずもうしよう」
「やんない」
「どーして!」
「疲れるから」
私はジャージの襟に顎を埋める。
先はまだ長い。菜穂とじゃれあって無駄に体力を使いたくない。
それに、菜穂の手の感覚は、あまり良くない。自分の中で、なにかがざわつく。
キスをした時のほうがまだ冷静でいられたと思う。
「つれないなあ」
菜穂がため息をついた。
そこで、運転手さんが次の停留所の名を告げた。
『次は、総合医療センター前。お降りの方は、降車ボタンを押してください』
道の先、真っ白な箱型の建築物が見えた。この地域では有数の大病院。二年前に、母方のおばあちゃんがここに入院していたことがあって、だから覚えている。
停留所の前で、乗客が待っていたらしい。
バスはゆっくりと速度を落とし、止まる。
ぷしゅう、と空気が抜ける音がして、前扉が開く。
かつん、と金属製のステップをヒールが踏む音が響く。
若い女性だった。
すらりとした身体を、白のドレスシャツと黒のロングスカートで包んでいる。
その人の切れ長の目が、私を捉える。
瞬間、私は胃が固くなるのを感じた。
佐伯先生。
私の担任の先生だった。
□
今日の放課後のことを、私は思い出す。
「どうして志望校を変えないの?」
窓から茜が差す職員室。佐伯先生と私の他には、誰もいない。
机の向こうに座った佐伯先生は、無表情で冷たい視線を向けてくる。
声音は責めているものではなかったけれど、叱責されていると感じてしまう。
佐伯先生のちゃんとした笑顔を、私は見たことがない。唇の端をほんの少し持ち上げていることがかろうじて分かるくらいにしか、先生は笑わない。
担当教科は英語。教え方はとても上手だ。発音は帰国子女のように洗練されているし、板書さえも見惚れるくらい美しい。その上容姿も優れているから、進学校であるこの高校において、生徒から高い評価を受ける先生の一人。
私自身、授業終わりに分からないことを尋ねたりと、勉強においてはそれなりに頼っている先生ではあるけれど。
心の底で、私はこの先生に苦手意識を持っていた。
佐伯先生は、評価は高いけれど、人気がある先生ではない。
愛想がない。冗談も言わない。親しみやすさがないのだ。
その上、完璧で何事も卒がないように見えるこの先生は、私の姉に似ていた。
その眼差しで、その沈黙で、その佇まいで、私を深々と突き刺す、私の姉に。
「高望みはいけませんか?」
「そうは言っていないわ。高い目標があるのはいいことだもの。そうでなくては慢心して気が抜けてしまう。それに、あなたが頑張っているのも、私は良く知っている」
けれど、と先生は机の上の成績表に目を落とす。
「この成績はあなたらしくないわ」
無惨な模試の結果。
志望校の判定は、絶望的だった。
高二の九月。今が大事だと、先生は口を揃えて言う。
その大事な時期に、私は滑り落ちた。
まだ時間はある。
けれど、現実的な伸びしろを考えれば、十分にあるとは言えない。
「なにかあったの?」
私は答えられなかった。
私は、無理や背伸びを重ねて、今の成績を保持してきた。
姉のように要領がいいわけではない。自覚していたから量だけはこなしてきた。
そのツケが来たのか。最近、文字が目を滑って、うまく内容が頭に入ってこない。
理解しようと焦れば焦るほど、ノートや教科書の言葉が意味を失って、ほつれて絡まる。しまいには、数式や年号、英語の長文の切れ端がでたらめに浮かんで消える夢を見るようになった。
自分が壊れかけている自覚はあった。
眠ることが怖くなった。
今日一日、自分が積み上げたものが目を閉じた瞬間に崩れ落ちてしまいそうで。
佐伯先生は、答えない私に問うた。
「高い目標を持つのは立派だわ。けれど、どうしても譲れない理由があるというのなら聞きたいの」
言えるわけがなかった。
お姉ちゃんに負けたくないから。
お母さんに私のことを見てほしいから。
そんな下らない理由を、この先生に打ち明けることなんて絶対に出来ない。
「早川さん?」
佐伯先生は、黙りこくった私の顔を覗き込むようにした。
私が耐えきれずに目をそらすと、ほんの少し、聞こえるか聞こえないかくらいのため息をつく。
「言えないのなら話は終わりよ」
私は椅子を引いて立ち上がった。
逃げ出したかった。今すぐに。私を取り巻く全てから。
「早川さん」
顔を上げる。
佐伯先生は、淡々と、感情のない声で告げた。
「時間を無駄にしないようにね」
□
佐伯先生は、後部座席に座る私たちを見て小さく目を見開いた。
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