第4話 気付くだけで
「妻の葬式だったんだ」
独り言のようなお父さんの言葉に、私と菜穂は視線を移した。
「私は、あまり出来た父親ではなくてね。仕事に構ってばかりで、娘のあすのことはずっと妻に任せきりにしていた。情けないことに、あすの髪を縛ってやることさえろくに出来ない。あすがどんな気持ちなのかも、本当のところは、分かっていない」
お父さんはこちらを見ず、膝の間に声を落とすように語る。
「そんな私でも、あすのことで、一つだけ確かだと言えることがある。
あすは、願い事を叶えようとしていたんだ」
「それが、野球をすること……?」
お父さんはうなずいて、少し上を見た。
「妻が倒れる少し前、家族で球場に野球を見に行ったんだ。あすはいたく感動してね。その時、家族で約束をした」
『いつか、おかあさんとおとうさんとわたしで、やきゅーする!』
「三人じゃ、野球は出来ない。それは、あすにも分かった。だからあすは、目に付いた人に声をかけるようになった。チームを作ろうとしていたんだ」
「でも、お母さんがいなくなって──」
「そう。約束は永遠にかなわなくなってしまった」
あくまでそこには、家族がいなければならない。
お父さんはため息をついた。
「もう約束に意味はないんだ。それは分かっているだろうに、あすは勧誘をやめない」
「四番に抜擢されたこと、嬉しかったですよ」
菜穂の言葉に、お父さんは苦笑する。
「私はあすに、妻の死をはぐらかしたりはしなかった。妻は死んだと、まっすぐに伝えた。非情だろうけれど、それが誠意だと思ったから。でも、あすはまだ野球をするつもりでいた」
がたん、とバスが揺れる。
「現実を受け入れられていないんじゃないかと、私は思った。そこでようやく、むしろその方がいいのだと気付いた。年齢が年齢だ。未成熟な心は、現実に簡単に押し潰されてしまう。そんなことさえも私は分かっていなかった」
お父さんは、掌で前髪をかきむしった。
「だから、現実から目を逸らして、誤魔化していた」
お父さんはそこでようやく、私達を見た。
「けれどあすは、私が思うより、ずっと強かった。そのことに、気付かされた」
あすちゃんは、きちんとお母さんが亡くなったことを分かっていた。
分かっていたから、自分は自分なのだと、言うことが出来た。
私には、自分は自分だけのものだなんて、とても言えない。
私は誰かの評価基準や価値判断に依存して、自分を自分たらしめているから。
たとえばそれは、模試の点数に。
たとえばそれは、教室における自分の立ち位置に。
たとえばそれは、お姉ちゃんという絶対的指標に。
菜穂も私と同じく、お母さんから突きつけられた夢によって、自分を規定していた。
「ありがとう。あすの気持ちを知れたのは、きみたちのおかげだ」
お父さんは頭を下げた。
すると、菜穂が慌てて、「やめてください」と、とりなした。
「お礼を言いたいのは、私の方ですから」
「……話を聞いてもいいかな?」
お父さんの問いかけに、菜穂はうつむいた。
「無理ならいいんだ」
「いえ。話します」
菜穂は何度か深く呼吸をして、肩を上下させた。
「私、ピアニストを目指していたんです。全然まだまだ、だったんですけど」
「うん」
「最近、わからなくなっていたんです。私は、私が望んだから、ピアニストになりたかったのか。お母さんがそうしろというから、それに従っただけなのか」
私は思わず、うつむいた菜穂の顔を見た。
視線を感じ取ったのか、恥ずかしそうに菜穂は頬をかいた。
「でも、考えるのを止めてしまっていて。そうしていたら、ぷつんと何かが私の中で、切れてしまって」
菜穂は、よく笑う。
私は、その笑顔の裏に何を隠しているのかを、正確には知らなかった。
痛いことや苦しいこと、叫び出したいくらいにつらいことがたくさんあったはずで、どうしてそれを我慢出来るのかが、分からなかった。
でも、我慢することなんて、出来てはいなかったのだ。
心に麻酔をかけて、痛みを殺していただけだった。
「『つらい』ってことさえも、今の今まで、分かってなくて。自分でも、自分が『つらい』って気付いたことが、ショックでした」
だから、と菜穂は、顔を上げた。
「今、ようやく分かりました」
当たり前の、けれど当たり前ではないそれを、噛みしめるように静かに呟く。
「私は、私だけのものなんだって」
夢を見ることは素晴らしいことだと思う。
でも、誰かの夢を叶えようとして、代わりに夢を見ることが良いことだとは私には思えない。
だって、私は私だけのものだから。
「……もっとお母さんと、話し合えば良かった」
「帰っていくらでも話すといいよ」
「まだ私たちは帰りません。そうだよね?」
振り返った菜穂に、私は一拍遅れて「……う、うん」とうなずく。
そこで、バスが次の停留所の名前を告げた。
お父さんは、はっとして、「止まります」のボタンを押した。
紫色のカバーに覆われたランプが、ぱっと赤い文字を灯して光る。
やがてバスはゆっくりと動きを止め、降車口の扉が開く。
「もうお別れだね」
眠るあすちゃんの身体を抱えて、お父さんが席を立つ。
ずいぶん話し込んでいたように思えたけれど、実際、それほど距離を稼いではいないだろう。ほんのひと時の、会話でしかなかった。
でも、なんだかそんな気がしなかった。
「あの」
立ち上がって声をかけた私に、お父さんは振り返った。
「チームを作るってことになったら、私と菜穂が入ります」
もちろん、野球なんてやったことはない。
でも、あすちゃんと一緒にやるのなら楽しそうだと思える。
私は菜穂の右肩を叩いた。
菜穂はおずおずと、うなずく。
「また会いましょう」
私の言葉に、お父さんは微笑んだ。
「わかった。じゃあ、また、会おう」
連絡先を交換したりするよりも、その方が自然に思えた。
この夜に私達が出会ったことは、偶然じゃないような気がしていた。
運命とか、きっとそういうやつだった。
だからきっとまた会える運命だと、そう思ったのだ。
バスの扉が閉まる。
発車します、と運転手さんが告げ、バスが動き出す。
車窓の外で、あすちゃんを抱えたお父さんの姿が、遠ざかっていった。
菜穂がぽつりと言った。
「あすちゃんと、もう少し話したかった」
「また会えるよ。約束したんだから」
「会えたらいいんだけどね」
もう会えないことが分かっているかのような言い草だった。
この夜の出会いの運命めいた不思議さを、菜穂は感じてくれていなかったのかもしれない。そういう感性においては、むしろ菜穂の方が優れているはずなのだけれど。
「鍛えておきなよ。そのなまっちろい手じゃ皮むけちゃいそうだし」
菜穂は両の掌をまじまじと見つめた。
なんにでも使える、なんにでも掴めるはずの、自由な掌を。
「ありがとう」
「なにが?」
「ゆうちゃんが家出しなかったら、私、ずっとあのままだった」
そっちが勝手についてきただけで、私は何もしていない。
でも、この優しすぎる友人は、それを認めはしないだろう。
私は苦笑した。
「じゃあ、もう少し家出に付き合ってくれる?」
菜穂は笑った。
「うん」
バスは私達を乗せて走る。次の夜の街に向かって。
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