第3話 所有物の両手は

 お父さんは眉を下げて言った。


「家出なんてやめた方がいいよ。親が心配する」


 お父さんはあすちゃんの背中を見つめてから、再び視線を向けてくる。

 私は答えた。


「あなたみたいな親だったらそうでしょうね」


 親は、子供を愛するのが当たり前。

 そんな当たり前が、本当にあれば良いのに。


 現実はきびしい。


 血の繋がりも、過ごした時間も、人と人との繋がりを必ずしも保証してはくれない。ふとしたきっかけで子供は簡単に見放される。

 たとえば姉より身長が一センチ短かったり。

 好物が、たまたま親の嫌いなシーフードカレーであったり。

 いつまでも泣き止まない癖があったり。

 そうしたつまらないことであっても、積み重なれば軋轢を生む。

 そして、つくろいようのない綻びとなって、裂けてしまう。悲しいことに。

 けれどもっと悲しいのは、子ども自身が、そんな現実を認められないことだ。

 私は心のどこかで、信じてしまっている。

 お母さんがいつか振り向いてくれるかもしれないと。

 そうしてあがき続けて、無為に終わり、傷つき、血を流し続けている。

 あすちゃんのお父さんは苦い顔をした。鈍い人ではないらしい。


「すまない」


「別に。謝らなくていいです」


 すると、あすちゃんがお父さんの傍を離れて菜穂に歩み寄った。


「ん、どうしたの?」


 菜穂が身をかがめる。

 あすちゃんは顔にかかった前髪を手でおさえながら、菜穂を見上げる。


「おねえちゃん。せんしゅになって」


「せんしゅ?」


「やきゅーせんしゅ」


 菜穂ちゃんは野球がしたいらしい。

 だけど、メンバーが足りないから、菜穂を勧誘している。

 たぶん、そういうことだと思う。

 

「びびっときた。お姉ちゃんはよばんになる」


 あすちゃんは、菜穂の手を取った。

 まっしろな手。

 怪我をしたらいけないからと球技の授業をことごとく休まされていた、魚のお腹みたいに綺麗なゆびさき。

 菜穂は、あすちゃんに握られていた手をそっとほどいた。


「ごめんね」


「どうして?」


「私の手は、私のものじゃないの」


 あすちゃんが首をかしげた。


「お姉ちゃんは、お姉ちゃんのものでしょ?」


 菜穂は小さく唇を開いたまま、固まった。

 何かをこらえるように胸に手を当て、空いた手で菜穂ちゃんの頭を撫でた。




「私はね、私のお母さんのものなの」




 それを狂気と、人は呼ぶのかもしれない。

 お母さんからの愛を肯定するがゆえに、他の幸せを切り捨てる。

 けれど私には、その歪みが羨ましかった。

 あすちゃんは、眉を寄せて、首を振った。


「……わかんない。お姉ちゃんの言ってること、よくわかんないよ」


「大人になれば、あすちゃんも分かるかもしれないね」


 菜穂は小さく微笑んでいた。

 目には、諦めと、暗い後悔のようなものが混ざっていた。

 

「わかんない。わかんない……!」


 あすちゃんは、もういちど、首を振った。

 空気が硬かった。

 私はお父さんの方を見た。

 お父さんは、困ったような微笑みを浮かべるばかりで、止めようとしない。


「おとなとか、かんけいない。あすは、ずっとあすのものだよ」


「どうして?」


「だって、だって──あすのおかあさんは、おそらに、いっちゃった、から」

 

 私の背中に、冷たいものが滑り落ちる感覚があった。

 きっと、菜穂も同じだったはずだ。

 今更に思い知る。

 誰のための法事だったのか。


「あすのおかあさん、いってたよ」


 あすちゃんは肩にのせられた菜穂の手を振り払った。

 言葉を詰まらせながら、何かを伝えようとして、菜穂の顔を見上げた。


「おかあさんいなくなっても、あすは、あるいていってね、って」


 菜穂が、息を吸い込んだ。


「それって、あすが、あすだけのものだから、だよね……?」


 あすちゃんのちいさな目尻に、真珠みたいな光の粒が浮かんだ。

 あっという間にそれがこぼれだすと、あすちゃんは大声で泣き始めてしまった。

 菜穂は、ぎゅっと唇を噛みしめると、あすちゃんの背中を抱きしめた。


「ごめんね」


 菜穂は、何度も謝った。

 それでも、あすちゃんは泣き止まない。

 私は痛いくらいぎゅっと掌を握っていた。

 深く息を吸って告げた。

 

「あすちゃん、いいものあげる」


 いいもの? とあすちゃんが涙でぐしゃぐしゃになった頭を上げる。

 私はポケットからシュシュを取り出した。パステルカラーのお気に入りのやつ。

 あすちゃんの身体をそっと菜穂から受け取って、席に座らせた。

 少し長めの髪をそのままにしていたあすちゃんの髪をくくってあげる。

 私に出来ることなんてこれくらいしかない。


「いいの?」


「うん」


 あすちゃんは、少しだけ笑ってくれた。

 泣き止んでくれたのなら、良かった。

 菜穂がほっとした顔をして、「……ありがとう。ゆうちゃん」とささやいた。

 その顔がまだ、苦しそうで、尋ねずにはいられなかった。


「菜穂は、平気なの?」


 今まで、ずっと無理をさせられて。

 周りの女子高生が、みんな享受している幸せを、とりこぼして。

 お母さんに愛されれば、他には何もいらない。

 なんて、本当にそんなことを、思っているのか。


「答えて」


 きっと、少し前までなら、ためらわずに「うん」と答えたはずだ。

 菜穂はゆっくりと首を振った。


「今、気付いたよ」


 菜穂は、隣で、泣きつかれて寄りかかっているあすちゃんの肩を抱き寄せた。

 その言葉が涙のように、菜穂の唇からぽろりと零れた。






「私、ずっと、つらかったよ」





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