白ちゃん編

第12話 その乗客は白かった

 菜穂に肩を叩かれて、仮眠をとっていた私は目蓋を持ち上げた。

 ワイヤレスイヤホンを外すと、曲と入れ替わりに車の走行音と短いクラクションが耳に流れ込んできた。騒がしくて雑多な気配に、遠のいていた現実感が戻ってくる。

 あくびを少し。軽く伸びをする。 


「ん……、今、どこなの?」


「外。見て見て」


 イヤホンをケースにしまい、車窓にかじりつく菜穂の背中にもたれかかって外を見る。


 思わず、ため息が漏れた。


 遠景は、山のシルエットに遮られることなく、地平の彼方まで点在する街明かり。

 近くには、クリスマスでもないのに発光ダイオードで着飾った街路樹が連なるきらびやかな歩道。九時過ぎだというのに人の往来が盛んで、若者の姿が目立つ。

 ビルの一階に並ぶお店は見るからにおしゃれで、超がつく有名店がひしめく。

 据えられた大型モニターに流れるのは、私の地元では放映されない新作映画の予告編。 


 都会だった。


 それも、太平洋沿岸に面する中部最大の大都会。

 バスが走っているのは中央分離帯のある片側四車線道路だ。周りの車の流量は地元の三倍はありそうで、さっきから少し進んでは止まるというのを繰り返している。

 初めて来た街というわけじゃなかった。むしろしょっちゅう遊びに来ている。ただし日帰りだったから、街の夜の顔を見たことはない。

 綺羅びやかで。ギラついていて。妖しげで。まるで別の街みたいに見える。


「都会にきたね」


「ね」


 菜穂はコンクールで都心に飛ぶことも多いから見慣れているはずだろうに、車窓に張り付いたまま離れようとしない。


「そんなに楽しい?」


「うん。ゆうちゃんは嬉しくないの?」

 

 私の声音の硬さを察したのか、菜穂が問うてくる。


「そりゃね。素直にはしゃげないって」


 私は菜穂の背中から離れて座席に深く腰掛け、息を吐く。

 いよいよ簡単には戻れない所まで来てしまった。

 わくわくよりも不安が勝って落ち着かない。菜穂も落ち着きが無いけれど、不安からではなさそうだ。

 ようやく車窓から目を離した菜穂が、少し熱を含んだ声で言う。

 

「にしても人多い気がするよね」


「どこかでお祭りとかイベントやってるんじゃない? 渋滞してるしさ」


「夏祭り的なやつ? 知らない街のお祭りとかわくわくするね。花火とか上げるのかなぁ」


「花火は時間的に終わってそうだね」


 お祭り、と記憶を手繰り寄せてみたものの、ごく幼い頃の思い出の断片がかすかに蘇るばかりだった。

 ここ数年はずっと、お祭りなんて甘えだと切り捨ててきた。夏休みは塾の自習室や公共スペース、図書館のラウンジにこもってばかりいた。

 だけど本当は、夜の神社に参拝したり、浴衣を着たり、屋台を覗いてみたり、そういう非日常の楽しみにちょっと憧れがあったりする。

 私だってそういう、いわゆる青春成分ってやつを、摂取したくないわけじゃない。

 むしろ好きだ。大好きだ。

 特に夏は、それがたくさん詰まっていると思う。

 だから秋がくると、寂しくなった。

 せっかくの夏を取り零してしまったような気がして。

 自業自得だけれど。


「ね。寄り道したくない?」


 気安い菜穂の提案に、今は心がぐらつく。


 私が立てた目的は「遠くへいくこと」だ。


 だから、寄り道をしたって全然良いはずだ。ただし私達が夜遊びをするのはリスクがある。

 ぐっと傾きかけた心を理性でおさえつけて、私は自分の服を見下ろす。

 トレーナーのスウェットの上下。


「私らの格好、明らかに学生じゃん。けーさつ見つかったら補導されるよ」


「それはやだなー……」


 制服のスカートをつまみあげて、菜穂が眉を寄せる。

 昼間であれば、制服は私服にあまり自信がない高校生のための心強い味方になってくれるアイテムだけれど、夜となれば話は別だ。

 ところが菜穂は、ある意味で高校生離れしていた。

 

「そうだ。服が心配なら、買っちゃえばいいんだよ」


 ブランドものの財布を取り出すと、不敵に笑う。

 その中身の頼もしさたるや。


「これだからお嬢様は……」


「世の中マネーだよ。マネー・イズ・パワー、だよ」


 大統領の演説っぽく言っていたけど、精神年齢が心配になるレベルの英単語を誇らしげに並べるのはどうかと思う。とはいえ力なき者である私としてはぐぬぬ、とほぞを噛む他ない。

 確かに私も十分なお金を持ってきたわけじゃないから、菜穂に頼らざるを得ない時がくるかもしれないとは思っていた。バス代だって積み重なれば安くはない。

 そこでようやく、薄っすらと疑問に思っていたことが口をついて出た。


「いまさらだけどさ。このバスって、一体何線のバスなんだろ。市民バスにしては一本でやけに遠くまで走ってるよね」


 最初にバスに乗って出発してから二時間は経とうとしている。

 一本の便で、それほどまで長く走行するバスは珍しいのでは。


「え。分かってて乗ったんじゃないの?」


「適当に乗っただけ。どれでもいいやって。終点に着いたら乗り継ぎしようかなって考えてたんだけど、ずっと走ってるからさ」


「大きな地域を巡回してる便? とかなんじゃないかな」


「考えられるとしたら、そうなんだけどね」


 がらんどうの車内を私は見渡す。

 外にあれだけ人がいるにも関わらず、乗客は私達の他に誰一人として乗り込んでこない。そもそも停留場にバスが停まる気配がない。今まで停まった時は必ず乗客が乗る時か降りる時に限られていた。

 私達としては貸し切りみたいで都合が良いけれど、まあ、こういうものなのかも?

 私は普段は電車と徒歩で通学していて、バスには縁遠かった。遠くに出る手段について明るくない。

 そのことについての疑問は「まだ」流せなくもないけれど、と私は静かな運転席の方を見遣る。

 さきほどの菜穂の失踪事件。目撃者がいるとすればただ一人。

「気がついたらいきなりバスの中にいた」という菜穂の言葉を信じるなら、経緯を知っているのは運転手さんに他ならないはずだ。

 一体何が起きたのか、聞きたい気持ちはあった。でも、間違いなく無言だろう。先生の言葉にすら無反応だったのだ。私がどんな言葉を投げかけたところで、なしのつぶてに違いない。

 

「まあ、考えても仕方ないよ。いつかは終点に着くでしょ?」


「……かるっ」


「気楽にいこうよ」


 それで、と菜穂が私に向かって身を乗り出してくる。花の匂いがかすかに掠める。


「お祭り、どうする? いく?」


「うーん」


 いざとなれば、菜穂の言う通り逃げちゃえばどうにかなる気がする。この人混みだ。追いかけるのも大変だろう。

 なんて、考えはきっと甘い。そううまくいくはずがない。

 やっぱ無理と言いかけて、次の菜穂の言葉に、開きかけた口が閉じた。


「まあ、ゆうちゃんが行きたくないなら、いいよ」


 菜穂は、自分のお母さんに無条件に盲目的に従っていた。

 自分の内心が上げる悲鳴にも気付かず、両手を見えない枷で嵌めていた。

 それは、菜穂が望んだことではなかったはずだ。

 飢えや渇きを前にして、口にしたくないものでも食べなければ生きていかれなかったのと同じ。菜穂はお母さんからの愛情を受け止めるしかなかった。

 中学生の頃、菜穂は言っていた。


『お母さんが「辛くない」と言えば涙が止まるんだよ』

『お母さんが「楽しい」と言えば楽しい気がしてくるし』

『お母さんが「嬉しい」といえば笑いたくなるんだ』


 それは現実を誤魔化す言葉遊びだ。

 けれど誤魔化しも繰り返せば魔法に変わる。

 魔法は菜穂の心に麻酔をかける。

 すると、お母さんへの依存がますます強まっていく。

「自分」というものが、必要ではなくなるほどに。

 つまり菜穂が肝心なところで選択肢を手渡してくるのは、私を気遣っているのではなく。


 それを判断するべき天秤となる「自分」がないから、なのだとしたら。


 今こうして私の家出に付き合ってくれている菜穂は、たぶん、ほんのわずかに残った「自分」の上澄みなのだろう。

 だとしたら。

 この家出が終わったら?

 私と別れたら、菜穂はどうなる?

 お母さんから逃れられるのか?

 答えは、ノー。

 間違いなく、菜穂は平気な顔をして最低な仕打ちを受け止め続ける。

 それが愛情だからと。

 私は自分の手をぎゅっと痛いくらい握って、菜穂を見つめた。


「私のことはいいの」


「え?」


「菜穂が、行きたいんだよね……?」


 私の言葉に、菜穂がきょとんとして目を瞬かせる。


「どうしても行きたいんなら、付き合うから。危ないかもしれないけど、いい」

 

 菜穂は、わがままになっていい。

 それに、家出に付き合ってもらうお礼もしなきゃだし、これくらいは。

 その時、バスがゆっくりと速度を下げはじめていたことに気付いた。

 前方に信号機はない。停留所があるのだろう。

 ということは、乗客が乗り込んでくるのだ。

 私と菜穂はあわてて居住まいを正した。

 バスが完全に停車した。ぷしゅう、と乗降り口のドアが開く。

 やがて、閉まった。


「……?」


 誰も乗り込んでこないままに、ドアが閉まってしまった。

 何だったの今の。

 一応停留所に止まりました、みたいなアピール?

 私と菜穂が困惑して顔を見合わせた時だった。

 軽快にステップを跳ね飛んで通路に現れたその乗客は、しなやかな体つきをしていた。

 服は着ていない。装身具はただ一つ。赤い首輪だ。

 真っ白な体毛の四肢で体をぴんと支え、その尾が警戒を示してゆらゆらと揺れる。

 私達を見て、その青い瞳がこころなしか細まった。

 いわずもがな、人間じゃなかった。






「「猫!?」」


 


 

 

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