第13話 ふれあいの作法
白猫はゆっくりと車内を見回すと、二人用の座席にひょいと飛び乗った。
怖気づくこともなく、ためらうこともなく、まるで本当の乗客みたいに。
「……………………」
私と菜穂は揃って猫の座った座席の背もたれを見つめて動けなかった。
もはや夜祭りのことなんてすっかり頭から吹き飛んだ。
明らかに普通でないことが起きている。
猫がバスに乗ってくること自体はぎりぎり受け入れられなくもない。電車に乗り込んでくる犬とか猫とかの動画をユーチューブで見たことがある。
でも、猫を乗客扱いしている運転手さんが普通じゃないことは分かる。
変だ。絶対におかしい。
ただ、とも思う。
この夜、どこまでも平常運転なバスにあって、私達の方が異物なのかもしれない。
私たちは無知だ。世間知らずな女子高生だ。
深い夜闇の中で何が起き、何があって、どのように朝が来ているのか。知ったつもりでいるだけで、経験がない。頭でっかちだ。
猫がバスに乗ることも、絶対にないことだとは言い切れない。つい先程だって、私達は、人が突然バスの中に誘拐される出来事に出くわしたばかりだ。
どうやらこの世界には、私の知らないことがたくさんあるらしい。
……受けいれよう。
夜を行く以上は、不思議を受け入れる度量を持とうじゃないか。
そしてともかく、猫。
近くで見てみたい。
めちゃめちゃ見てみたいよ。
けど、近付いたら、驚かせてしまうかもしれない。それで猫が車内を逃げ回ったりしたら運転手さんに迷惑がかかる。あまり褒められた行為とは言えない。
「……ここはじっとして見過ごすべきかな」
苦渋の選択を取ろうとする私をするりとかわすように菜穂は立ち上がる。
「でも、おとなしそうだよ。近くで見てみようよ」
駄目だって。という静止の言葉がかすれて消える。
結局、菜穂の後ろから追いかける。
「お、おどかさないようにね」
「うん」
幸い、バスは信号待ちのせいで停まっているから、揺れはない。
菜穂がそっと顔を出して、猫のいる座席を覗き込んだ。
振り向いた菜穂が、ちょいちょい、と手招く。
私は息を詰めて、そっと覗き込む。
窓際の座席に、ふんわりした綿あめみたいな白いかたまりが丸まっていた。
触れたら溶けてしまいそうな艷やかな毛並みは、手入れがされているということだろうか。そこそこ毛足が長いのに、乱れた様子がない。まるでぬいぐるみのように見えるけど、かすかに呼吸で体が上下しているから、間違いなく生きている。
本物だ。
本物の白猫。
──……かわいい。
見ていると、衝動が喉元からあふれ出てきそうになる。
ゆるみそうになる頬を、手でおさえた。
飼い猫や飼い犬の経験がない私にとっては、ちょっと刺激が強すぎる。
のり付けされてしまった視線を、ばりっと音がしそうなくらいに強く剥がした。
そこで菜穂がとんでもないことを言った。
「撫でてみよっか」
「だっ、駄目だって」
こうして見ているだけでも胸が苦しくなるのに、撫でるだなんて。
それに、あんなかわいい生き物を撫でて起こしてしまったら罪悪感がすごそうだ。
「びっくりさせて起こしたら、かわいそうだよ」
「そっかあ。そうかもね」
菜穂は特にこだわらずにうなずいた。
猫を眠りから起こさないように、そろそろと後部座席に退避。
危なかった。
いやでも、撫でるとは言わないまでも、触るくらいなら、良かったような。
ほんのすこし、頭に触れるだけなら。問題ないような?
揺れる内心が吹き出しそうになるのを、私は急いで鉄の理性で蓋をした。
この程度の誘惑に負けてしまうようでは、だめだ。
今まで何回、眠りの欲求に耐えて勉強したことがあると思ってる。
落ち着け。落ち着くんだ。
私は猫を撫でるために家出をしたんじゃない。
ちゃんと目的があるんだから、それにそぐわないことはするべきじゃない。
「菜穂の気持ちは分かるけど、おさえて」
「そだね。うん。……あっ」
菜穂が短く声を上げた。つられて、私は菜穂の視線の先を辿った。
猫。猫が、来てる。
尻尾を揺らしながら、こちらにむかって通路をとことこと。
思ったより、大きい。耳がぴんと三角形に立っている。毛足の長さはスコティッシュフォールドとかペルシャ系に近いけど、体つきが凛々しい。メインクーンとかだろうか。
猫は、私達の眼の前でちょこんと座ると、小首を傾けて「にゃ?」と鳴いた。
「…………………………っ」
とんでもない破壊力だった。声をあげなかった自分を褒めてあげたい。
私が身悶えているうちに、菜穂が座席を降りた。
「おやおや。構ってほしいのかな?」
そして、猫の視線の高さに合わせるようにかがみ込み、頭をそっと手で撫でた。
気持ちよさそうに目を瞑る白猫に、菜穂が顔をほころばせた。
「あはは。おとなしいにゃーちゃんだねぇ、君」
撫でて、おっけーなの……!?
もしかして、人懐っこいにゃーちゃんなのかも……!?
だったら……、いや。
自分で言ったばかりじゃないか。
おどかしてしまうかもだから、撫でちゃ駄目だって。
いまさら撫でたいなんて言えない。言えるわけない。こんなにも早く自分の言葉をころころとひるがえすとか軽薄だ。プライドってやつはないのか。
菜穂のゆびさきが顎に回ると、いっそう白猫は気持ちよさそうに耳を倒した。
繊細な楽器でも奏でるみたいに猫をあやす菜穂は、まるで魔女みたいだ。
「お? 首輪に名前が書いてあるね」
菜穂がひょいっと白猫を抱き上げて、座席に座り込んだ。
気軽に膝の上に乗せて、背中から首輪を確かめている。
「……『白』。しろちゃん? だって。そのまんまだね」
菜穂の言っている言葉が、半分も頭に入ってこない。
どうして。
どうして、そんなふうに自然と、平然と、だっこ出来てるの?
もしかして猫をあやすコツのようなものがあるんだろうか。
それを教えてもらえば、私にも。
いや。別にそんなものを教えてもらわなくたって、はっきり言えば良いはずだ。
私にもかわいがらせて、って。
でも、出てこない。恥ずかしい。恥ずかしくて仕方ない。
すると菜穂はすべてを察したように、私が今一番欲しい言葉をくれた。
「ゆうちゃんもだっこしてみる?」
大げさではなく、菜穂のことが天使に見えた。
菜穂の華奢な腕に収まっているしろちゃんが、きょとんとして見上げてくる。
つぶらな青い瞳に、理性があっというまに墜ちた。
「う、うん」
気がついたら、手を伸ばしていた。
その時だった。
しろちゃんは、ぷい、とそっぽを向いた。
「…………………………あ」
──……嘘。
嘘だと言ってほしい。
でも、しろちゃんはつんとしたままこっちを一向に見てはくれない。
膝から崩れ落ちそうだ。
嫌われている。完全に。これは、だめだ。撫でちゃ駄目なやつだ。
気の毒そうな顔で菜穂が「ど、どんまい」と苦笑いした。
「うるさいぃ……」
恥も外聞もなく座席にあおむけに倒れ込み、両手で顔を覆った。
その時、私のトレーナーから何かが転がり落ちて、かたん、と音を立てた。
目で追うと、それはワイヤレスイヤホンのケースで、蓋が開いている。
片方のイヤホンが、ケースから外れてしまっていた。
手を伸ばそうとすると、それに先んじて、何かがイヤホンを攫っていく。
何か、じゃなかった。
菜穂の腕から飛び降りたしろちゃんが、イヤホンのかたっぽを口にくわえたのだ。
「えっ」
しろちゃんはそして、前の背もたれの上に器用に飛び乗ると、私を見下ろす。
思わず手を伸ばしたけれど、当然、猫の軽やかな身のこなしについてこれるはずもない。
宙を切った私の掌が、下に据え付けられていた何かをかちりと押し込んだ。
ピンポン、と軽快なベルの音と共に、車内アナウンス。
『止まります』
バスの座席には、通路側の乗客でもボタンを押せるように、背もたれの上にも降車ボタンが据えられていた。私は手をかけた際に、それを押してしまったのだ。
いや、押してしまったんじゃない。
ボタンを押すように、しろちゃんに誘導されたのだ。
やられた。
なんて賢い猫。
気付いた時には、バスがゆっくりと速度を落としている。
それを察知して、しろちゃんが駆け出した。揺れをものともせず、軽快に前方の降車口へ。
「なっ!」
立ち上がり、追いかけようとするものの、揺れで足元がふらつく。
もたついている間にバスが完全に停車し、ぷしゅう、とドアが開く。
しろちゃんは、あっという間にそこから飛び降りていった。
「待っ──」
追いかけて、降車口を駆け下りるも、時既に遅し。
停留所の周囲は住宅地。オレンジ色の明るい街灯が周囲を照らしている。
動くものがあるならすぐに分かりそうなものだけれど、猫の姿は影も形もない。
それを認めた瞬間、私の喉から叫びが駆け上がった。
慟哭ってやつだった。
「あ、あ、あ、あのっ、どろぼうねこぉぉぉおおおっ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます