第14話 門前で払われる

「……ゆるさん」


 静寂に沈む住宅街に、私のつぶやきが紛れて消える。

 周囲は見知らぬ夜の街だ。

 九月の下旬だというのが信じられないほどの蒸し暑さは、ここが私の地元でないことを明確に肌で伝えてくる。

 とはいえ、今は暑さどころじゃない。

 いたずらか何のつもりか知らないけど、たとえ猫であってもどろぼうを許すわけにはいかない。

 ワイヤレスイヤホンはお年玉を使って購入したもの。スマホの次に高級な品にあたる。猫の餌にするには少々もったいなさすぎる。

 家出を続行するにあたっては、まず、あれを取り戻してからだ。

 振り返ると、菜穂がバスから降りるところだった。

 菜穂は地面に降り立ったところで一度運転手さんの方を振り返り、すぐにこちらへ向かってくる。


「なんか話してた?」


「ん、ちょっとだけ」


「……なんか変なこと言われてないよね?」


「あはは。大丈夫だよ」


 とりたてて私に話すまでもないことだったのか。菜穂がそれより、と話を変える。

 

「で、猫を追いかけるんだよね?」


 菜穂にも一緒についてきてもらうつもりだったけれど、外をうろつくとなると懸念が一つ持ち上がってくることを忘れてはいけなかった。


「また菜穂がいつの間にかバスの中に、なんてことにならないようにしないとね」


「……う」

 

 菜穂が顔をこわばらせた。

 仮にもう一度、同じ事件が起きたとしても──途中下車して道を戻ればいい話かもしれない。けれど、あのバスに一人取り残されてしまうこと自体が不安だ。

 バスは菜穂を乗せて走り去ろうとしていた。最悪、途中下車が許されない可能性もある。また佐伯先生のように走って止めるわけにもいかないだろう。


「あんまり、遠くに行かないほうがいいかも」


「?」


「運転手さんが、さっき言ってて。……ここまでずっと、私達を運んでくれたでしょ? だから、責任を感じてるんじゃないかな」


「ああ、そういうこと」


 夜は深く、若い私達はろくにその歩き方を知らない。

 トラブルに巻き込まれかねない私達を心配してくれているのか。

 でも、トラブルに関わっているはずの人に心配されるというのもおかしな話だ。


 バスが依然としてその場に佇んでいるのを、私はじっと見つめた。

 

 低いアイドリング音を響かせながらも、発車する気配がない。待ってくれているのか。まさか。貸切バスでもあるまいし、そんな必要なんてない。

 本当に、私達のことを心配しているのだとしたら、案外、いい人?

 運転手さんの顔は、こちらからは影になって伺えない。

 信じてもいいのか、私には分からない。

 街灯のオレンジ色の光を浴びたバスは、夜そのものから切り取られたように輪郭が浮かび上がって見えた。

 蒸し暑い残暑の夜にもかかわらず、背筋を薄ら寒いものが這い上る。


「とにかく、今は猫を探しにいこう」


 ひとまずバスから離れたかった。

 歩きだすと、菜穂が隣に並ぶ。

 じゃり、とアスファルトを踏む私達の足音が、住宅街に挟まれた薄い暗闇に反響する。

 田舎の闇は濃密でどこまでも広く深く、恐ろしかった。

 都会の闇は霞んでいて奥行きがない代わりに、親しい。

 自然と、意識が内に向かった。

 バス。猫。失踪。

 問題を投げ出して逃げてきたのに、その先でも、問題は積み重なる。

 結局、逃げられはしない。そういうことなんだろうか。

 やるせない。終わりがないじゃないか。せめて今だけは、気を抜かせてほしい。

 深呼吸すると、緊張が、ゆっくりとほどけるのが分かる。


 そこで、ふと、隣で揺れていた菜穂の左手が目に入った。


 いなくなってしまう菜穂を、繋ぎ止めるにはどうすればいいか。その方法。

 少し迷って、思い切った。

 気がついた菜穂が少しびっくりした様子で、私の顔を伺ってくる。

 手を繋ぐこと。

 小学生の時だったらともかく、高校生となった今、私からはまずしない。

 女の子同士で手を繋ぐこと自体は珍しくもない。腕を組むことだってある。

 ただ私は、仲が良いにしたってそこまでする? なんて思ってしまう。

 貴重な両手の内の一つをふさいで、あまつさえ、相手の手を一つ奪ってしまう行為が、身勝手というか……、あまり大きな価値を見いだせなかった。 

 けれどこれは必要に迫られての行為だ。

 佐伯先生から逃げた時に手を繋いだのと同じ。やむにやまれず、だ。

 ただ──


「……ええと。やめる?」


 思わずそう口にしてしまったのは、菜穂が固まって足を止めたから。

 正直、まさか断られまい、という打算があった。菜穂なら笑って受け止めてくれるだろうと。むしろ、嬉しがりそうだ。

 だからそれは思わぬ反応で、内心がぐらつく。


「こうすれば、勝手にいなくなることないかも、でしょ?」


「……なるほど。さすがだね」


 感心した菜穂がようやく歩き出して、私の隣に並んだ。


「いやなら、いいけど。所詮、気休めだし」


「ううん。ゆうちゃんからって珍しいな、って思っただけ」


「……そ」


 言い訳を重ねて勝手にもやついた胸が、握り返してくる菜穂の柔らかなゆびさきを感じた途端、少し楽になる。

 まさか猫をあやすだけじゃなくて、人の心をも自在にあやしてしまえるんじゃないだろうな。そんなことを、半ば本気で思った。

 菜穂は手を大切にしなければいけなかったから、そもそも誰かと手を握るなんてタブー。佐伯先生から逃げる際に手を繋いだ時は、だからなのか楽しそうだった。

 今はもっと楽しそうで、にこにこしている。


「じゃ、今度誘拐される時は、一緒に誘拐されちゃおっか」


「物騒なこと言わないでよ」


 ちょっとどきりとした。まあ、最悪そうなるだろう。

 考えたらその通りになってしまいそうだから、あまり口にしたくない想像だった。


「それで──しろちゃんどうやって探すの? もう相当遠くまで逃げちゃったと思うし、あてずっぽで探すのは、ちょっときびしめな気がするけど」


「心配は無用」


 私はスマホを取り出してアプリを立ち上げる。

 それは、スマホに紐づけされているデバイスの位置情報を教えてくれるアプリだ。メーカーが標準搭載しているもので、デバイスをどこかに置き忘れたり落とした際にとても役に立つ。私はいままで、本来であれば紛失していたに違いないところを何度かこれに救われていた。

 私のワイヤレスイヤホンはスマホのミュージックアプリを再生していたデバイスだから、当然スマホと紐づけされている。たとえイヤホンのかたっぽであっても、位置情報の検出に支障はない。

 期待通り、地図上に現在地から離れた場所でイヤホンの位置を示すピンが立った。

 思ったよりも離れていないけど、間違いない。あのどろぼう猫の所在地だ。

 まさか私達に居場所を掴まれているとは思うまい。


「待ってろよあの猫……」


 ちょっと顔こわいよ、と指摘された。


 






 いっこうに緩まない夜の暑さは辛かったけど、知らない街の夜歩きは楽しい。

 歩いてほんの三分もかからないうちに、とあるお屋敷の前に辿り着いたところで、道端に落ちていたイヤホンを見つけた。さいわい、無事なようだ。

 猫はこのあたりにいるに違いない。

 屋敷は、周囲を高い塀が囲い、中に庭園があるのか樹木がざわざわと揺れている。

 正面に回ると立派な黒塗りの門があり、その財力と地位の高さを思わせた。

 豪邸というやつだ。


「あっ……!」


 声を上げた菜穂が門の前を指さした。

 白い影。やつだ。

 前足を両方使ってかりかりと門を掻いている。愛くるしい仕草だけれど、ほだされたらさっきの二の舞いだ。

 

「きっとここがあのどろぼう猫の家なんだろうね。あれは何をやってるのかな」


「もしかして、門が閉まってて入れないのかも」


 豪邸の周りを囲う塀は高い。しかも、頂点には尖った剣山っぽいものも設置されている。忍者並みの身体能力をもつ猫といえど侵入は容易くないのだろう。

 ざまあみろだ。


「ゆうちゃん。家の人に言って、入れてあげない?」


「えぇー……」


 なぜあのどろぼう猫に親切にしなければならないんだ。

 菜穂が握った手に力を込めてくる。


「私、ちゃんと帰る家があるって幸せなことだと思うんだ」


「……急に含蓄あること言うじゃん」


「ふふん。もっと褒めてくれてもいいよ」


 腰に手をついて胸を張っていた。褒めたわけじゃないんだけど。

 私が渋々門に近づくと、しろちゃんが気がついて顔をあげた。

 目を離さず、一歩、二歩、と後ずさりをして、離れていく。

 結局、猫がなんのつもりで私のイヤホンを奪ったのか不明だ。

 ここまで誘導したかったわけでもないだろうし、そもそも追跡されているだなんて思っていなかったはずだ。

 まあ、猫のことだし、人間が考えたところで理屈が分かるはずもないか。

 周囲を見回すと、電動シャッターと門の間に挟まれた柱にインターホンが据えられているのを見つけた。

 こんな立派なお屋敷に、夜遅くに尋ねていいものだろうか。

 迷っていたらいつまでもインターホンを押せない気がした。深呼吸をしてから、頭の中で三つ数えたところでボタンを押す。

 ピンポーン……、と間延びした音が、私の緊張を煽った。

 しばらく、かなり長いこと無言だった。


『……はい?』


 思ったよりも若い男の人の声が、ノイズ混じりにスピーカーから届く。

 その声の、どこか尖った感じに怯みそうになりながら、私は答えた。


「よ、夜遅くに突然すみません。あの、この家の猫だと思うんですけど、中に入りたがってるみたいなんです。門を開けて入れてあげてくれませんか」


 インターホンについているカメラに映るように、菜穂がしろちゃんの体を抱き上げた。すると、むこうで動揺した気配があった。


『は、』


 短い吐息のような、驚きを含んだ声が聞こえた。

 しかしその後で、最初に聞こえた声の何十倍も不機嫌そうな声が、ひび割れて届いた。


『そんな猫は知らない』


「えっ、でも──」


『帰ってくれ』


 ぶつ、と。叩きつけるように音声が切れた。

 私達は途方に暮れて、門の前で立ち尽くした。

 少しだけせつなそうに、しろちゃんが菜穂の腕の中で「……にゃあん」と鳴いた。

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