第46話 落ちていた記憶
電車を降りてホームの時刻を見ると、午後五時過ぎだった。
菜穂は「掃除当番で少し遅くなるから先に行ってて」とのことで、今日の帰りは私一人だ。
人の流れに乗って駅のロータリーを降りると、茜色の夕焼けに出迎えられた。
九月末といえど残暑は厳しい。川沿いの道にむかって歩き出すと、回り込んだ夕日が私の背中を焼く。
川沿いの道は人気がない。広い川幅で滔々と流れている川は、ほとんど水音が聞こえない。中央に青黒い深みを湛えて、おだやかに流れている。
河川敷にはサッカー場があり、休日にはたくさんの人で賑わう。中洲には雑木林が広がっていて、蝉の声がうわんうわんと響いていた。
歩く内に、下がった成績、見失った目標、言いたくないことばかりがぐるぐると頭の中に巡って、それが私の足を立ち止まらせる。
うつむくと、長くなった私の影が、まっすぐに伸びているのが見える。
その私の影を、道の先の誰かが踏みつけた。
「あれ? 夕ちゃんじゃん」
顔を上げた。暑さとは違う汗を、かすかに背中に感じた。
聞き覚えのある声。脳裏に、思い出がよぎる。でも、制服のブラウスをだらしなく着崩し、明らかに染めていることが分かるアッシュブロンドの髪が、私に別人である可能性をほのめかす。
でも、彼女が岬真理亜であることは、やはり、疑いようがない。
その隣には、高い背の男子がいて、私を見下ろしている。
「誰?」
男子が問うと、真理亜は「昔の友だちの早川夕ちゃんだよ」と、紹介していた。
すると男子は、何かを心得たように「ああ、あの夕ちゃん」とうなずいた。
男子は、私の知らない人だ。言葉からして、真理亜が私の話を男子にしていたのか。
「偶然じゃん。元気してた?」
「別に」
「ふふ、言い方。昔と変わんないね」
真理亜は赤いネイルが目立つ指先を口に当てて、苦笑する。
そして、私が男子に対して警戒していたのに気付いたのか「カレシだよ」と付け足して、親しげに男子に腕を絡ませた。
あの、クラスで一番人気の男子を足蹴にしていた真理亜が男子と付き合っているだなんて、なんだか不思議な感じがした。
「真理亜は、変わったね」
「まあね。あれから色々とあったし」
皮肉というわけでもなくて、淡々とした、大人びた口調だった。
「せっかく会ったんだし、歩きながらちょっと話さない?」
帰ったほうがいい。
そうは思ったけれど、真理亜の落ち着いた態度に、否定の言葉があとずさりする。
結局私は、二人に挟まれる形で、ついていくことを決める。
真理亜はぷらぷらと歩きながら、懐かしそうに目を細めて語った。
「夕ちゃんは学校来なくなったから知らないと思うけど、私、先生とママにすっごく叱られたんだよ。反省文もたくさん書かされて、クラスでも微妙に孤立したし。夕ちゃんの前で言うのはあれだけど、正直ダルかったよ。
でもまあ、それはどうでも良かったの。一つ、すごくショックなことがあってさ」
「……?」
「降ろされちゃったんだよね。モデルの仕事」
真理亜は無表情で打ち明けた。
その横顔に、どこか落ちぶれたような、堕落した気配が、強まる。
私は鞄の紐を持っている手に、ぎゅっと、力を込めた。
「職場にいじめしてたことバレちゃってさ。それから仕事振られなくなったの。永久追放、みたいな。で、今の私はもう、なんでもなくなっちゃった。ほんと最悪だよ」
「それはでも、いじめた真理亜が悪いだろ?」
男の子が突っ込むと、真理亜は「まあね」と肩をすくめる。
「誤解しないで欲しいんだけど、私、根に持ってるわけじゃないよ。子どもじゃないしね」
やがて真理亜は川沿いの道を折れた。
周囲に人気のない、古びた石橋にさしかかったところで振り返る。
「私、夕ちゃんと仲直りしたいって、ずっと思ってたんだよ。だから今日会えて、本当に良かった」
「……そう、なんだ?」
それで、どうしてこんな場所に?
問いかけようとした言葉が、耳元で跳ねる心臓の音に邪魔されて、出てこない。
「で、思ったんだ。夕ちゃんにも、私と同じ気持ちを知ってほしいって。
そうしたら私たち、またやり直せるって思わない?」
欄干に手をやって「だから」と、真理亜は平熱の声の温度で言う。
「落ちてよ。ここから」
乾いた笑みがこぼれた。
めちゃくちゃ根に持ってるじゃん。
反省とか、全っ然、してないし。
変わってなかった。真理亜はやっぱり、真理亜だ。
男子がぷっと吹き出した。お腹を押さえて、げらげら笑い出す。
身を引こうとしたところで、真理亜がすぐに道を塞ぐ。
「また、逃げるんだ?」
ガラスの破片が、胸に深々と突き刺さったみたいだった。
すぐに、逃げればよかった。でも、もう遅い。
その時だった。足音がした。私と真理亜と男子は一斉に、振り返った。
「……これ、どういう状況なのかな」
息を切らした菜穂が、橋のたもとに立っていた。駅から走って追いついてきたらしい。考えられる限り、最悪のタイミングだった。
菜穂は困惑した面持ちで、私の行く手を遮る真理亜を見た。
「あなた、岬真理亜さん? どうして、ゆうちゃんと一緒にいるの」
「いいとこにきたじゃん、不感症女」
真理亜はもう悪意を隠しもしなかった。
男子が真理亜の意を汲んで素早く動き、菜穂の腕を取る。
菜穂は「はなして!」と抵抗したけれど、男子の腕力には敵わない。
「何、してんの。菜穂は、関係ないでしょ!」
「分からない?」
真理亜は無造作に、菜穂のブラウスの襟元に手をかけた。
ぶちっと音を立てて、留められていた胸元のボタンが一つ飛ぶ。キャミソールが露わになる。菜穂が小さく悲鳴を上げた。
私は耐えきれなくなって、怒鳴った。
「やめて」
「じゃあ、言う通りにして?」
私が鞄を置くと、真理亜が菜穂から手を離す。
「ゆうちゃん。これ、どういうことなの」
男子に手を掴まれながら必死に問いかける菜穂に、私は答えなかった。
欄干に手をかけてよじ登る。
「な、何してるの。だめだよ、そんなの……っ」
欄干の上に両足で立つ。
思ったより、ずっと水面まで距離があった。十メートル以上はある。
こんな大きな川に落ちたら、助からないかもしれない。
「だめ。だめ────────────────────────っ!!」
絶叫を振り切って、私は欄干を蹴った。
あっという間に水面が近づいてきて、全身に衝撃がきた。視界が、真っ白になる。息ができない。痛い。痛い。痛い。全身の骨が、ばらばらになった。それくらい、痛い。自分が、はたしてどうなっているのか。分からない。何が上で、下なのか。
口の中に水が入ってきて、むせる。そのたびに、水がまた入ってくる。苦しい。苦しすぎて、死にたい。いっそのこと。
目を開ける。滲んだ視界はどんどん暗くなっていく。
もう、辞めよう。
そんなことを思う。
これ以上がんばって生きて、なんになるの?
浮かんだその問いを突き破るみたいに、ざぶん、と大きい水音がした。
何かが、沈みかけた私の上から近づいてくるのが分かる。
「手を……!」
滲んで仄暗い視界に、光が差すように、ゆびさきが見えた。
見た途端に、ゆびさきから、旋律が聞こえたような気がした。
急に、自分の中に、力がこみ上げてくる。
さっきまでの絶望が、塗り替わっていくのが分かる。
衝動に突き動かされるままに、私は手を伸ばす。
その手の主と私は、共に水流に飲み込まれていく。
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