第45話 終点、某、海渡り
「うーん……?」
バスが停まってから十五分くらい経った後。ようやく菜穂が目を覚ました。
「やっと起きたの」
隣の私が声をかけると、体を起こした菜穂が目を瞬かせて、戸惑ったように頬をかいた。
「…………えっと。どれだけ寝てた? 私」
「ざっと一時間は」
「そんなに……」と菜穂が小さく繰り返す。
「さっき海に着いたんだよ。なのにずっと起きなくてさ」
もし、このまま起きなかったら、どうしよう?
そんなふうに思って不安だった内心が、微妙に言葉に滲んだ。
「ごめんね。…………っ、うわ!?」
菜穂が謝罪に両手を合わせた。途端に、のけぞった。
菜穂の両手は、肩口まで透明になっていた。
分厚い窓ガラス越しに見た景色みたいに、透明になった腕の向こう側が微妙に歪んで見える。
「……すご。なんかちょっと記録に残しておきたかったかも」
「じゃあ、写真でも撮る?」
私がスマホを取り出して言うと、菜穂は案の定面白がって口元を釣り上げる。
「いいね。……っていうか、ゆうちゃんこそ、その手どうしたの?」
私は血の滲んでいた両手を、後ろ手に回した。
「なんでもないよ」
「大丈夫? どこで、怪我したの」
「ちょっとバスで。でも、大した怪我じゃないから」
「ほんと? 運転手さんに、危ないことでもされた?」
鋭いな、と私は思った。
「大丈夫だから、心配しないで」
菜穂はしばらく何も言わずに、私を見つめていた。
やがて、沈みかけた空気を振り払うように、声をひとつ分明るくして、宣言する。
「分かった。それじゃあ、行こっか。終点」
「うん」
菜穂が先に車内を進み、乗降口へと向かっていく。
私はその背中に続く。
途中で一度立ち止まり、運転手の方を一瞥してから、降りた。
バスを降りた途端に、潮風が鼻をくすぐった。
周りを見回す。海岸沿いの道路のようだ。人気は全然ない。道に沿って等間隔に配された街灯が、アスファルトを照らし出す仕事を実直にこなしているだけ。
寂れまくりな土地だった。目につくのは畑か、古びた家くらい。
バスの右手は遠くのカーブで見えなくなるまで道沿いに胸壁が続いていて、その下は松林が風にざわめいている。
私たちは胸壁の切れ目から階段を降り、松林の間を縫う道を辿って海岸に出た。
海岸は当然明かりがなく、真っ暗だった。どこまでが浜辺でどこからが海なのか見分けがつかない。
スマホのライトで地面を照らす。ハマヒルガオや錆びた空き缶に捨てられた雑誌、白い砂に埋れたがらくたを認めながら、波音目指して砂浜を進む。
唐突に足首がひやっとした。
波打ち際だ。
「うわーめっちゃ濡れたーっ!」
菜穂の叫びが暗がりに響き渡った。
菜穂は私の先を歩いていたから、その分波を大きく被ったようだ。
「太ももまでいったんですけど!?」
「前歩いてたそっちが悪い」
「それはそーだけどゆうちゃんだけ無事なのゆるせーん!」
菜穂が手で海水をすくって思いっきりかけてきた。
顔にもろに浴びた。口の中が一瞬でしょっぱい味に占領された。
菜穂は「ふへへー」とやけに吹っ切れたように笑っている。
「なにしてくれんの!」
「あははははっ! ゆうちゃんは相変わらずどんくさいね!」
追いかけてみろ、とばかりに菜穂は逃げだした。
そうみせかけておいて、追撃とばかりに振り返り、海水を両手で掬おうとしてうずくまる。
その狙いは読めていたから、水面を蹴って盛大に水しぶきをお見舞いしてやった。
思いっきり海水を浴びた菜穂が、「うひゃあ!」と叫んで後ずさりする。
「ちょっとー! 足使うの反則じゃない!?」
「いつそんなルール決まったの」
「さっき制定した!」
「そんなん知るかっ!」
お互いに、水をかけまくった。せっかく服を変えたのに、また濡れ鼠だ。
はしゃぎすぎて、息が切れた。疲れて、砂浜に寝転がる。あっという間に服が砂だらけになったけれど、構わず猫みたいにごろごろと転がる。面白がった菜穂が、一緒になって寝転がった。
今の私は、きっと遠からず、目を覚ました元の身体のところに戻るかして、消えるだろう。
晴がそうだったように。
その前に、思い出さなければいけない。家を出る前に、何があったのか。
失われた記憶の状況と、海は、水の中にいたという点で近い。
だからきっと、記憶を取り戻すきっかけになってくれるだろう。
そう思うと、海を目指したのはあながちただの気まぐれではなかったのかな、と思う。
しばらく私たちは、黙って夜空を見上げていた。
お互いの吐息の音だけが、波音の伴奏に寄り添って聞こえていた。
「楽しかったな」
夏休みの日記帳の結びみたいな言葉を虚空に浮かべて、菜穂が息を吐く。
濡れたワンピースの裾が、私の肌に触れていた。三十六度の体温に温められているはずのその生地はあくまで冷たくて、菜穂が生きていることを感じさせてくれない。
「まだ、生きてる?」
問うと、手を引っ張られた。
そちらを見ると、菜穂が手を広げていた。
おずおずと身を寄せると、菜穂の胸元にすっぽりと抱かれた。
冷たい肌だった。水晶みたいだ。温度だけじゃなく、色まで。
「生きてるよ」
菜穂の体は、もう胸元まで透明になっていた。
でも、耳を澄ますと、心臓の音が確かに聞こえた。
生きていて、良かった。
どんなふうであっても、たとえ目には見えなくなっても、生きていてほしい。
身勝手なほどに、願ってしまう。
「私、ゆうちゃんに出会えなかったら、ずっとこわれたままだった」
菜穂は私の体を離すと、言った。
「ゆうちゃんと一緒にいるようになってからやっと、ちゃんと生きられたような気がするよ」
私も同じだ。
こうして二人でいる今がいちばん強く「生きている」って、思える。
でも、これから先一人になったら、生きているのに死んでいるような毎日が続くだろう。そうして私はきっといつか、菜穂のことを忘れる。忘れて、いつか死ぬ。
そんな人生は嫌だと、心から思った。
私が立ち上がると、菜穂も立ち上がる。
菜穂は、足を海水に浸しながら波打ち際を歩く。
私がその足取りを辿っていくと、ふいに、後ろに手を回した格好で振り返る。
おぼろげに闇に慣れた私の目に、ワンピースの裾が翻るさまが、白黒映画のワンシーンみたいに映った。
「ゆうちゃんに会えて、私、本当にうれしかったよ」
何も言えなかった。言葉がぜんぶ、飾られた見本のように陳腐で、何も届かない気がした。
でも、届きそうもない言葉だって、胸の中で腐らせてしまうより、言ったほうがずっとマシだと思った。
「私の方が、その百倍、うれしかったよ」
「じゃあ、私は千倍」
菜穂は笑って、透明なゆびさきで私の手を取る。
茫漠とした暗い海の中へと、進んでいく。
ざぶんと、波が私の膝を洗った。
寄せては引いていく波に、私たちはさらわれていく。
私は菜穂の手を離し、先へ進む。
やがて足が、とらえていた水底の感覚を失う。体が漂い出す。
真っ暗な闇の中へ、体と意識が、投げ出される。
記憶が、鮮明な色と形をともなって、蘇る。
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