第44話 はなればなれの隣人
それから数日が経ち、いじめが大人たちの知るところとなった。
先生と私の両親とで話し合いの場が持たれ、真理亜やクラスメイトが反省をしていること、これから健全な学校生活を約束すること、望むなら保健室登校という選択肢もあることを告げられた。
私の答えは決まっていた。
「学校にはもういきません」
大人たちは私の答えを、いたわるようなぎこちない笑みを浮かべて飲み下した。
私は晴れて、不登校になった。
それからほとんどの毎日を、家にやってくる菜穂と遊んで過ごした。
後ろめたい気持ちや、自分がだめになっていくことを焦る心が、なかったわけじゃない。
でもその時だけは、学校に通うより、ただ菜穂と一緒にいたかった。
修学旅行も、自然体験も、参観日も、運動会も、私たちにはなかった。
それでよかった。
私たちは、意味もなく近所を散歩したり、河川敷で花火をしたり、ピアノのコンサートを聞きに行ったり、父方の祖父の家にお泊りをした。部屋にいる時は基本的に勉強をして、たまに読書、飽きたらゲーム、それからユーチューブをだらだら見て寝落ちしたりした。
まるで毎日が夏休みだった。
けれど夢のような季節はすぐに流れて、春が来た。私と菜穂は小学校を卒業した。
中学に上がると、私は学校に通学するようになった。
菜穂と一緒の学校なら、大丈夫だと思った。
それに、いじめの原因が自分であることを負い目に感じていた結美さんを安心させたかった。
思ったより早々に私は中学生活に馴染む事ができた。真理亜が別の学校だったのも大きい。
その頃には気持ちにゆとりが出来て、最初のお母さんのことを距離をもって考えられるようになった。
けじめというわけではなかったけれど、でも、気持ちに区切りをつけたくて、私は、結美さんのことを「お母さん」と呼ぶようになった。
菜穂はピアノがますます上達していった。もう私では到底及ばないレベルにまで。
一方で、私は勉学に打ち込んだ。
少しずつ一緒にいる時間は減っていったけれど、いつまでもくっついていなければ寂しい子どもみたいに、心もとない感覚を覚えているというわけじゃなかった。
私たちは、一度離れたとしても、元の場所に帰ってくることを知っていた。
それがお互いの隣であることもまた、分かっていた。
それから私たちは高校生になり。
今も隣にいる。
でも、これから先はきっと、はなればなれだ。
私の膝で弾かれていた「きらきら星」が、終わった。
菜穂はけれど、私の二の腕に頭をもたれさせて眠ったままでいる。
バスが動くのにあわせて、菜穂の顔の上をオレンジ色の街灯の明かりが横切っていく。
私はそっと、空いた手で菜穂の頬に触れた。冷たい肌をしていた。
私に温かさを与えてくれた、あの体温が遠かった。
「菜穂」
体を揺すっても菜穂の起きる気配はなかった。
もう私には、はっきりと分かっていた。
菜穂は、死んでしまったのだ。
今の菜穂は、やがて消える残響のようなもの。
ふと思い出すのは、祖母のお葬式だった。
お葬式の祭壇に飾られた、祖母の笑顔の遺影。
思い出の中の顔が、菜穂の笑顔にすり替わる。
菜穂のお葬式ではきっと、菜穂のことを何も分かってない奴らが、さめざめと泣いたり、好き勝手なことを言って貶したり、笑ったり、お酒を飲んだりして騒いだりするんだろう。
どいつもこいつも、消えてしまえばいい。
お葬式なんて絶対にごめんだった。
でも、そういうものだ。
そういうものでしかないんだ。
これは、頑張ってどうにかなる話じゃない。
たとえどんなに菜穂の味方で、菜穂を想っていても、どうにもならない。
だって、終わった話なんだから。
私の誓いは、空振りに終わり、何にもならなかった。
そんなふうに思ったときだった。
するりと、菜穂の右手から何かが落ちた。
たぶん、さっき体を揺らした時の衝撃で、手の力がゆるんでしまったのだろう。
床に落ちたそれを拾い上げて、私は首をひねった。
「なに、これ」
地球の言語は、何千種類とあるらしいと聞いたことがある。
でも長四角の紙片に刻まれているこれは、そのどれにも該当しないような、およそ文字とも言えない機械的なようでいて有機的な羅列だった。
それは、明らかに私の生きている世界のものじゃなかった。
私はそれを握りしめて、バスの前方を見つめた。
運転手の背中が、暗がりの向こうに見えていた。
ちょうどバスが、高速道路を降りたところだった。
海が真近にまで迫っていた。
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