第43話 溢れる
翌日の朝、ベッドから起きようとすると、体が重くて仕方なかった。
朝ごはんを食べる時間がきても、頭がぼんやりして、部屋から出られない。
「夕ちゃん? 大丈夫?」
戸の外から聞こえる結美さんの気遣う声に、何も答えられなかった。
結美さんはこの頃、当たり前のように家にいる。
でも私は、学校で何があったとか、絶対、言いたくなんかなかった。
押し黙ったままでいると、結美さんが重ねて言った。
「何か、言ってくれない?」
私は布団をかぶって耳をふさいだ。間もなく荒立たしく足音がして、布団が引き剥がされた。
お姉ちゃんが憮然とした顔で私を見下ろしていた。
「なにしてんの、夕。具合悪いの?」
「……そんなとこ」
お姉ちゃんは構わず、私の額に手を当てた。
「熱ないじゃん」
「ほっといてよ」
私は引き剥がされた布団を抱え込む。
「熱あるってことにしてあげてもいいけど」
振り向いた。
お姉ちゃんは鬱陶しそうに顔をしかめて、私の背中を軽く蹴る。
「結美さんとちゃんと話しな。それが条件」
お姉ちゃんはそれだけ言って、部屋を出ていく。
私は丸めた布団に顔をおしつけた。
──無理だよ。
結美さんはお母さんじゃない。他人だ。お姉ちゃんのように割り切れない。
でも、そうやって私がいつまでも前に進まないでいたら、結美さんも前に進めない。
分かってるよ。
分かってるけど、どうしようもないんだよ。
お姉ちゃんは何をしても良い結果を出し続けている。ピアノを弾いても不安になることもなく、褒められても素直に受け取れて、ふんだんに喜びを与えられていたお姉ちゃんとは、私は違う。違いすぎて、本当の姉妹じゃないとすら思ったこともある。
否定されてるんだよ。私は、どんなことだって。
何をやったって裏目に出るし、何もかもうまくいかない。
だからもう、何をしたって無駄だし、何もしたくない。
そのくせ、もしこれから学校に行けなくなったらと思うと、すごく怖い。
学校を出なければ、きっと、ちゃんとした大人になれない。
息をして、ご飯を食べて、寝るだけの、駄目人間になってしまうかもしれない。
誰かを見捨てて平気で幸せになろうとするような、最低人間になってしまうかもしれない。
それは嫌だと思うのに、手足は全然動かない。
将来も、現実も、何も見たくなかった。
かたく目をつむってひたすらに祈った。
死ぬ時はせめて消えるように、いなくなりたい。
それから丸々一週間、学校をサボった。
結美さんは体調不良だと学校に伝えてくれたようだけれど、仮病だとは気付いていたはずだ。
それでも私に何も事情を尋ねようとしないのは、お姉ちゃんが止めてくれたからだろう。
ありがたいのに、結美さんの生ぬるい態度は私をますます苦しくさせた。
「お友だちが来てるよ」
自室の戸の向こうから結美さんの声が聞こえて、私はのろのろと起き上がった。
窓の外から人を焼き殺せそうな太陽光線が降ってきていて、一瞬目がくらむ。
「……追い返してください」
「宿題を届けに来てくれたの。ほんの少しの間でいいから、顔を見せてあげてくれない?」
「……はあ」
お姉ちゃんと約束した以上、結美さんと言い合いになるわけにはいかない。
重い体を起こし、寝間着のまま玄関に向かう。
インターホンのカメラに、クリアファイルを抱えた菜穂が映っていた。
私は、無視しようかと思いかけて、やめた。
「なんで来たの」
「早川さんっ」
一瞬だけ声が弾んで、けれどすぐに地に落ちた。
「病気、って、聞いたけど。大丈夫……?」
「仮病だから」
「そっか。良かった」
ほっとした様子の菜穂は、見ていてイラついた。
「もう関わんないでって言ったじゃん」
「でも、ほっとけなくて」
私はきつく目を瞑った。お人好しすぎる。
菜穂を遠ざけておきながらいまさら、好意に甘えるわけにはいかない。いかないけど。
私は頭を掻いた。壁に額を当てて「ああああ」と唸った。返事をしたのは、二分くらい経った後だった。
「プリントだけちょうだい。そしたら帰って」
玄関を開けた。
差し出されたプリントを受け取って、ドアを閉めようとすると「待って」と声がかかる。
「大丈夫?」
「そう見えるの」
「見えない。ゾンビみたい」
「…………………………ふつーに傷つくんですけど」
「えっ、ごめん。じゃあカピバラとか?」
「じゃあカピバラって何」
「かわいいかなって」
呆れた。どこまでも菜穂は菜穂だった。
その上「あ、そうだ」と手を打って突拍子もないことを言い出す。
「今から見に行こうよカピバラ」
平日真昼の動物園は空いていた。
周りの木々から蝉の声がわんわんと響く中、私たちは二人きりで園内を巡る。
去年は菜穂の家族と私の家族が一緒だったけれど、もう同じように集まることはない。それを思うと楽しめなくなりそうで、追いかけてくる思い出から目をそらすように、アクリルガラス越しのカピバラを見た。
カピバラはのっそりしていた。それに、すごく眠そうだ。
きっとこの子達は明日世界が破滅するとしても同じ顔をしているんだろうと思うと、少し笑えるような悲しいような気持ちになった。
「一日でもいいから、カピバラになってみたくない?」
私の隣でしゃがみこんだ菜穂が言った。
「ご飯食べて、寝て、日向ぼっこして、寝てたい」
寝てばかりだった。最近の私と同じだ。
「私はなりたくない」
「なんで?」
「寝てばかりいたら、人生、損じゃん」
「良くない? 学校、行かなくていいし」
「全然良くない」
小学生で学校行かないなんて、やばい。
これから先、家のことでバカにされることなんていくらでもあるだろう。
あの程度でいちいち逃げたりしていたら、この先やっていけない。
成績が下がる。いい学校にいけなくなる。そうなれば、大した仕事先には就けない。
その大したことない仕事だって、AIに取って代わられたりしてお前は役立たずだと捨てられる。
学校に行かなきゃいけない。そうなると真理亜からの仕打ちを耐える必要がある。
あの黒い笑みを思い出すと、高い日差しが照りつける中なのに、寒気を覚える。
すると菜穂が、「早川さん」と囁くように言った。
「学校、無理に行かなくていいよ」
「それは嫌」
私は首を振った。
すると菜穂は、また思いがけないことを言った。
「じゃあ、私も学校行かない」
「何、言ってんの?」
「早川さんがいない学校なんて、つまらないよ」
私は立ち上がった。愕然としていた。放たれた言葉の重大さと菜穂の軽い態度の温度差に、目が眩みそうになった。
なんて能天気なんだ。
「駄目。絶対、駄目だからやめて。そんなこと」
私のせいで、菜穂が不登校になるなんて、嫌だ。
それにそもそも、そんなことが菜穂の家で許されるとは思えない。
あの、菜穂に暴力を振るっている親が、娘の望みを素直に聞いてくれるだろうか?
「じゃあさ。私が毎日、学校終わりに早川さんに会いに行くよ。それで、宿題とか、届けに行く」
「さっきから、あんた本気で言ってるの?」
菜穂は平然とうなずいた。
理解が出来なかった。そんなことをしたって、何の得もない。
「私、あんたのこと無視したんだよ。ひどいことしたんだよ。忘れたわけじゃないでしょ」
菜穂が睫毛を伏せて、ぐっとうつむいた。
「……うん」
「だったら、やめなよ。私と仲良くしてるって知られたら、もっと真理亜にいじめられるよ。私と一緒にいたって、一ミリも得にならない。無駄だから。全部、無意味」
菜穂が私のことでいじめられる必要なんて、どこにもない。
私に関われば関わるほど、菜穂の人生は損をしていく。
もう、ほうっておいて。
叫んだ。私たちの結びつきが、ばらばらに砕けるように吠えた。
静まった空白に、菜穂がそっと「でもね」と差し挟む。
「私、平気だよ。ここ、こわれてるから」
菜穂が自分の胸元を両手でおさえた。
私は、菜穂のお腹の痣を見た時と同じくらい、揺さぶられた。
「それに、得とか損とか、分からないよ。私、お母さんの言うことしか、聞いてこなかったから。でも、こんな私だけど、早川さんの力になりたい。これまでで初めて、そう思ったの」
菜穂が立ち上がった。
私の手を取って、両手で包み、胸元に引き寄せた。
周りの音が遠くなった。視野が狭まって、世界が眼の前しかなくなった。
「ここ」がこわれてるのは、私も同じだと思った。
でも、触れている菜穂のゆびさきを通して、染みてくる。
ヒビが入って冷たくなった私の心臓の隙間を埋めるように、やわらかな温かさが。
「早川さんは、私のこと、嫌い?」
その質問は、ずるいと思った。
私はずっと寂しかった。
冷たい北風が吹き渡る野原に一人ぼっちで取り残されたみたいに、身体中が軋みを上げるほど寂しくて仕方なかった。
菜穂が隣にいてくれる今が、どんなにかけがえのないものか、今の私にわからないわけがなかった。
ぎゅっと奥歯を噛んだ。
嫌いだって、言ってしまえ。
でも私の唇は、抗いようもなく本当の言葉を紡いでいた。
「ううん」
菜穂はふわりと、かろやかに笑った。
「それならもう、全然、大丈夫。どんなにいじめられても、ばかにされても」
私は手を痛いくらい握りしめて、泣かないように我慢をした。
うれしいって思ってしまう自分が、許せなくて。
でも、そんな我慢は全然、役に立たなかった。
「私は、早川さんの……、ううん。
ああ。
無理だ。もう、おさえられない。
胸の中に、あふれだした。言葉にならない思いが、私の空っぽを食んだ。
この先、どんな人生を歩むことになったとしたって、今の瞬間よりも大切な時間はきっとない。
私たちはどうしようもなくこわれていて、
本来なら、たった一匹で真っ暗な宇宙に放り出されたライカ犬みたいに、どこにもいけなかったけれど、
こうして、出会ったから。
こわれた心臓を繋ぎ合わせて、もう一度、一緒に歩き出せる。
喉奥から熱い塊がこみ上げてきて、おさえた手の間から、嗚咽が漏れ出た。
大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちた。ぽろぽろと。次から次に。
声を上げて、私は泣いた。
思えば、お母さんが出ていってから、ずっと泣けないでいた。
うずくまった私の背中を、泣き止むまでずっと、菜穂が撫でてくれた。
私は、魂の表面に刻みつけて誓った。
どんなことがあっても、何をささげることになったとしても、菜穂を見捨てない。
私も、菜穂の味方だから。
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