第42話 誰も知らない笑顔の裏側

 私が教室に入った途端、ざわめいていた教室が静まった。 

 誰もが私を見て、一瞬、押し黙った。


「何?」


 周りを見回すと、皆が動き出す。

 目を逸らす人。顔を背ける人。仲間同士でこっそり耳打ちし合う人。

 そして、あからさまに私を見てくすくす笑っていた人の集まりがあった。

 その中に真理亜の姿を認めて、嫌な予感がした。

 椅子に横向きに座っていた真理亜が「ああ、おはよ夕ちゃん」と私に声をかけてくる。


「……おはよ。何か、あった?」


「べつになにも?」


 真理亜は小首を傾けて答える。周りの子がぷっと吹き出す。

 私はため息をついた。また真理亜のしょうもない悪戯か何かかと思った。


「何かあったでしょ」


「え、なに? 疑うの友達のこと」


「そういうのダルいよ」


 その時、すうっと、真理亜の顔から笑みが消えた。


「前から思ってたんだけどさ。夕ちゃんっていつもちょっと上から目線じゃんね」


 ふいに、黒板をひっかいた音が響いたみたいだった。体がすくんだ。

 真理亜が周りを見回すと、「わかるー」と適当な同調が広がる。


「いちいち偉そうっていうかさ。そういうの、良くないって思うんだけど」


 どっちが。

 言いかけて、真理亜に遮られる。

 

「夕ちゃんがそんなだから、家、駄目になっちゃったんじゃない?」


 自分が立っている場所がいきなり崩れて、崖っぷちに立たされた気がした。

 それで、私が教室に入ってきた時の、クラスメイトの不可解な反応を悟った。

 言いふらされた。真理亜に。私の家が、壊れてしまったこと。

 ぎゅっと、心臓を鷲掴みにされた気がした。声が震えた。


「なんで、それ」


「お父さんが仕事の関係で、たまたま知ったみたいなの」


 私の反応に気を良くしたらしい真理亜が、笑顔の黒い花を咲かせる。

 私は軋む胸元を手でぎゅっと掴んで、声を絞り出す。


「……言わないでよ。そんなこと」


「え? 嫌だけど?」


 いたって平熱な言葉の温度で、真理亜は続ける。






「夕ちゃんってさ、駄目な子だったから、お母さんに捨てられたんでしょ?」

 

 

 

 

 

 どっと笑いが湧いた。

 どうして、自分でそうと認めているはずのことを、誰かに指摘されるとこんなにも痛いんだろう。

 本当は、まだ自分に期待してたんだろうか。だとしたら私は本当に、救えない。

 



 

 

 授業中、後ろから消しゴムのカスを飛ばされた。

 振り向くと、たくさんの子が下を向いてくすくす笑っている。

 放課後、給食袋がなくなっていて、探すと、掃除用具入れに放り込まれていた。


「早川さん、それ」


 ホコリまみれになった給食袋を手にした私を、菜穂が見ていた。

 

「誰にやられたの」


 私は答えなかった。

 黙って自分の机に引き返すと、机にかけてあった私のランドセルがない。

 はしゃぐ声が聞こえた。真理亜がランドセルを椅子にしていて、それを周りが面白がっている。


「返して」


 私の声を、真理亜は聞こえないふりをした。

 ため息がもれる。その時だった。


「岬さん。何やってるの?」


 菜穂が真理亜に声をかけた。一斉に、視線が二人に集まった。


「それ、早川さんのだよね。どうして座ってるの」


 真理亜が小さく舌打ちをして、低く睨みつけた。

 思い返せば、真理亜は菜穂にもちょっかいを出していた。ここまでひどくはなかったけれど、でも菜穂は、全然とりあわなかった。

 まるで眼中にないみたいに自分の世界に没頭している菜穂のことが、真理亜としてはあまり面白くはなかったのかもしれない。

 きっと真理亜は、つつけば噛みついてくる手頃な相手が欲しかったのだ。

 菜穂は、そういう相手じゃない。

 真理亜は立ち上がって、菜穂に食ってかかった。


「関係ないやつがしゃしゃり出てこないでよ」


「自分のランドセルに座ったら?」


「だからさ、関係ないでしょ」


「返してあげて」


「出てくんなって、言ってるでしょ!」


 真理亜が苛立たしげに怒鳴って、菜穂の肩を強く押した。

 菜穂は体勢を崩して、背後の机を巻き込んで倒れ込んだ。

 机の上には花瓶が置いてあって、それが割れてものすごい音を立てた。

 真理亜は青い顔をしていた。

 やりすぎだ。

 女の子の同士のけんかは、たまにある。

 だいたい、どちらかの女の子の方が泣いて終わる。

 後ろ向きに倒れ込んだ菜穂は、相当痛かったはずだ。割れた花瓶の衝撃もある。

 菜穂が泣いてしまうと誰もが思っただろう。

 でも、菜穂は。

 割れた花瓶の破片で手足を薄く切り、血の赤をあちこちに滲ませた菜穂は、平然と立ち上がって言った。

 

「続ける?」


 ぞっとした。

 菜穂の全身から、あの、影のような気配が滲み出しているように見えた。

 ──こんな程度のことが何?

 無言のうちに、菜穂はそう言っている。

 多少肩を押されて倒れたくらい、じゃれつかれた程度の認識でしかないのだ。

 盛り上がっていた教室の気温が、一気に下がっていた。

 菜穂はきっと家で、今されたことよりもずっとひどいことをされている。

 そのことを、私以外は誰も知らない。

 誰もが異様なものを見る目で菜穂を見ながら、凍りついたように動かなかった。

 ただ一人、正常に流れる時間の中で菜穂が動き、へたりこんだ真理亜からランドセルを取り上げた。


「はい。早川さん」


 薄く血のついた手で、ランドセルの肩紐が差し出される。

 私では出来ないことを、いとも簡単に菜穂はやりおおせた。

 今回も、また。

 私は首を強く、強く振った。


「いらない……っ!」


 教室を飛び出した。

 逃げ出した私はトイレに駆け込んで、鏡で自分の顔を見た。

 憮然としていてなんだか偉そうなやつが、哀れっぽい目をして私を見つめ返していた。

 菜穂に庇われたこと。その、おぞましいほどの強さが悲しかった。でもそれすらも欲しいと思ってしまうのは、私が本当はどうしようもなく弱いからだ。

 私は鏡を手でぶったたいた。割れればいいと思ったのに、手が痛いだけで、ばかみたいだった。

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