第27話 晴⑥

 夏日の体の震えが収まったところで、私は腕を離した。

 すると夏日がふと我に返って、慌てたように私を見上げる。


「わ、わたし、ごめんなさ……、わっ」


「危な……っ」


 夏日が倒れそうになったところを、とっさに駆け寄って支える。

 パイプ椅子の上で体育座りをしたまま動き出そうとすれば当然危ない。

「ごめんなさい」と夏日が蚊の鳴くような声で謝った。


「取り乱してしまって。ご迷惑、おかけしました……」


「全然いいよ。これくらい」


 私自身、自分が優しい人間だとは思わないけれど、弱っている人間の気休めになることくらいならいくらだって出来る。

 立ち上がった夏日が私を見て、ほのかに顔を綻ばせる。


「早川さんは、なんだか私の姉さんより、姉さんらしいですね」


「え゛っ」


 喉の奥から潰れた声が出た。


「な、何かお気に障りました……?」


 夏日が少し焦ったように見上げてくる。私は「いや、そのお……」と頬を指でかいた。


「私も、お姉ちゃんがいてさ。なんていうか、おんなじ巣の中に住むライバル、みたいな関係で、全然不仲なんだよね。だから夏日さんの『姉さんらしい』っていうの、うまく想像出来なくて」


 いつだったかテレビ番組で見た鳥の子育ての映像を思い出す。

 雛鳥たちは、血がつながった兄妹であっても押しのけて餌を得ようとしていた。

 私とお姉ちゃんは、そこまでじゃなくても似たような関係だった。 


「それに、私のお姉ちゃんは何でも出来ちゃうから、いっつも比較されるんだよ。お姉ちゃんに比べたら妹は……、って。それが嫌で嫌で」


 夏日がくすりと笑う。


「ちょっと、分かります。私も、あの破天荒な晴の妹ならやっぱり破天荒なんだろうって、偏見の目で見られることがありますから」


 顔を見合わせて笑ってしまった。姉を持つ者同士のシンパシーというやつで。

 ただ私とは違って、夏日の言葉からは姉の晴に対する親愛が伺えた。

 それでぽろっと、言葉がこぼれた。


「夏日さんは晴のことが好きなんだ」


 おずおずと夏日がうなずいた。

 夏日は胸の前に両手をぎゅっと合わせて、もう一度うなずく。

 羨ましいな、と思った。

 私も、お姉ちゃんのことを、好きになりたかった。

 今、顔を合わせても何も話せる気がしない。もう五、六年はきちんと話していなかった。今のお母さんとだって、ちゃんとした会話をしたのはいつだっただろう?

 そんな有り様だから、数少ない友人である菜穂に心配されることになる。

 今はその菜穂とすら顔を合わせられる気がしないのだから、救いようがない。

 菜穂が何を考えているのか分からない。

 突然、私の匂いを『好き』と言いだしたこと。

 分からない。分からないから戸惑って、こうして離れていることに少しほっとしている自分さえいる。

 そばにいて、と言ったくせに。

 振り返ると私は、菜穂に心のままに振る舞ってくれることを望んでおきながら、実はただ私の望むように菜穂を動かしたかっただけだったのかもしれない。

 だとしたらちょっと、いや、かなりひどい。ひどすぎる。


「どうしました……?」


 夏日に顔を覗き込まれていることに気付いて、我に返った。

 人と話している最中にまで別の人のことを考えている。重症だと思った。


「ごめん。なんでもない」


 誤魔化して、入口のスライドドアを振り返った。

 いい加減、二人目の晴がいることを伏せているのが、気の毒になってきた。

 ため息をついて、夏日にしっかりと目を合わせる。冗談だと思われないように。


「もしもの話なんだけど。馬鹿にしてるわけじゃないから、笑わないで聞いて」


「はい……?」


「晴が二人いて、会えるとしたら、どうする?」


 ぱちぱち、と瞬きの音さえ聞こえそうなほどの沈黙が部屋を満たした。

 しばらくして、夏日は言った。


「夢の話、というわけではなく?」


 私がうなずくと、夏日は顎に手を当てて、しばらく考えてから言った。


「倒れちゃうと思います」


 やっぱり、第二の晴に会わせるわけにはいかなそうだった。


 




 病室を出たところで、壁に背中を預けていた第二の晴……、もとい、生霊的な存在であることが確定した晴が待っていた。


「晴、病室で寝てたよ。意識がないんだって」


「そっか。じゃあいよいよこれで本当に、あたしはファンタジーな存在だってことが証明されてしまったわけかぁ!」


「なんでうれしそうなの……」


「実は憧れてたんだよね。幽霊とか宇宙人とかさ」


 私もその気持ちは分かるつもりだけど、当事者になるのはちょっと違うと思った。

 晴は足取り軽く廊下を歩きだした。表情は伺い知れない。

 隣に並んだものの、顔は見られなかった。必要以上に明るい声だったからだ。


「大丈夫?」


 私が声をかけると、晴は頭の後ろに腕を組んで「だいじょうぶだいじょうぶ」と言う。


「眠ってる私と今の私と、どっちが本物だとかそんなこと考えだしたらきりないしね。受け入れるしかないよ」


 私は眼の前にいる晴のことしか知らない。

 仮に、眠っている晴とは顔の似た別人だと言われても、分からない。


「夕の方こそ、落ち着いて受け入れているように見えるから不思議だ」


「私は今晩、不思議なことをたくさん経験してきたから」


「へえ?」


 興味深そうに眉を上げた晴に、私は肩をすくめる。

 あのバスに乗って、私は自分の見てきた世界の狭さをたくさん知った。

「それより」と逸れた話を戻すべく、続けて言葉を接ぐ。


「夏日さんも病室にいたよ」


 晴が答えるまでに、少し間が空いた。


「……そっか」


 ちょっと休もうと晴が言って、ナースステーションの脇にあるパーテーションで区切られた休憩室に入っていく。後に続くと、眺望の良さに驚いた。壁の全面がガラス張りになっていて、街の夜景が見下ろせたのだ。照明が控えめなこともあって、街明かりが水面のように私の足下を浸している。

 そばに給水器が設置されているのを見つけて、一杯いただくことにした。汗をかいていたせいか、冷たい水がとても美味しい。ぼろぼろな革張りの肘掛け椅子に座ると、対面のソファに晴が腰掛けた。


「で。あたしが生霊であることが分かったとして。きっと、いつまでもこうしていられるわけはないんだろね」


「……それって」

 

 つまりは、今度こそ本当に死んでしまうか、いなくなると、そういう。

 考えてみれば、それは当たり前のことだった。

 顔を上げると、晴は静かに笑った。夜景の光が目に映っていた。


「今こうしていられるのは、死ぬ前にやり残したことがあってどうしてもこの世に留まりたかったとか……、あるいは神様のきまぐれか、でしょ? まさかずっとこのままいられると思えるほど、私も呑気じゃないよ」


 晴は笑って、水の入った紙コップを手の中で揺らして弄ぶ。

 まるで他人事みたいな晴は、見ていて落ち着かない。


「じゃあ、心残りを果たせなかったり、時間が経てば……」


「消えちゃうんじゃない? 霊のことなんてわかんないけどさあ」


 晴はからっと笑って、一気に紙コップの水を飲み干した。手の甲で口元を拭うと、背もたれに投げ出すように体を預ける。


「あたしとしては、こんな姿になったところでいつまでも歌ってられればそれでいいんだけど。やっぱり時間が永遠にあるとは思えないかな。それこそ明日まで持つのかも分かんないし」


 絶句した。

 自分が明日にでも消えてしまうだなんて言われたら、まともでいられる気がしない。でも、それを否定できる材料は何もないのだ。

 今の晴は一瞬の幻に過ぎないと言われても、不思議じゃない。

 いつまでもそのままでいられると思うほうがおかしい。

 すると、晴が面白がるように言う。


「ところでさ。夕が乗ってきたバスって、普通のバスなの?」


「え……?」


「だって、今のゴーストなあたしと関わりがありそうのは、あのバスだからさ」


 言われて、関連に気付く。

 私達の乗るバスは普通じゃない。少なくとも私の知る公共交通機関とは言えない。

 それでもどこがおかしいかといえば、深夜に運行していることや必要以上に私達を丁寧に送迎してくれていることくらいで、その理由が分からないことが不穏であるだけだった。

 ところがあのバスは、生霊となった晴をごく自然に乗車させていたことが判明した。

 それをただの偶然で済ませられるはずがない。今までの異常さと関連付けて考える方が自然だ。

 あのバスは、非常識なバスなんかではなく。

 そもそも常識の外にあったのだと考える方が腑に落ちる。


「あたし、事故に遭ってしばらく彷徨ってからあのバスに出くわしたわけだけどさ。今考えると、偶然の出会いにしてはなーんか変な感じがするんだよね。目的地もないのに、乗らなきゃ、ってバスに誘われた感じがしてさ」


「……まるで迎えに来たみたいだ」


 晴がうなずく。


「その口ぶりからすると、やっぱり普通のバスじゃないんだ」


「うん。少なくとも、世間で運行してるような普通のバスじゃない」


 私は晴に話すことにした。あのバスに乗って今まで起きた不思議なことを。

 話終えると「もしかしてさ」と半分冗談めかすように、晴が言った。


「あのバスは私のような生霊のためのバスなのかもしれないね」


「……まさか」


 だったら私も菜穂も晴とおんなじ生霊だってことになる。

 あるいは、生霊専用というわけじゃないのかもしれない。でなければ、あすちゃんや佐伯先生がバスに乗った説明がつかない。まさか全員生霊ってわけではないと思いたい。

 当然バスには何らかの目的があって、そうしているはずだ。すると疑問が浮かぶ。

 どこへ向うのか?

 ぐしゃ、と私の手の中で、紙コップが潰れる。

 思い出すのは、池田さんの言葉だった。

 銀河鉄道の夜。死者を乗せた汽車が最果てへ向かう旅。

 

『このバスはただ、どこまでも行くバスなんだって』


 まともに受け取らなかった菜穂の言葉が、ふと耳に蘇った。

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