第26話 夢なんて見ないでよ
「どなた、ですか」
ベッド脇から声をかけてきた女の子は、とるものもとりあえずに着た風のくたびれたTシャツにワイドパンツといった格好。
ぱっつんの前髪から覗く瞳から、やや警戒の色を宿した視線を向けてくる。
顔立ちに見覚えがあった。この人が、晴の妹なのだろう。
「今が何時か、分かっているんですか」
深夜の病室に押しかけてきた非常識をなじる声音。
怒られても当然で、相手が年下であるにも関わらず萎縮しそうになる。
「ごめん、なさい。私は、早川って言います。晴の、えっと、友達で」
思わず敬語になって言うと、その人は「そうですか」とあっさり納得した顔をした。
晴のお友達なら非常識でも仕方ないといった風で、それだけで普段どんな目で晴が見られていたのかが伺える。
「あの、あなたは……?」
「晴の妹です。三枝夏日(なつひ)と言います」
夏日は立ち上がると、自身が座っていたパイプ椅子を手で示した。
非常識な友達であろうと、お見舞いに来てくれたお客であることは変わりないからともてなそうとしてくれているらしい。一つ年下なのが信じられないくらい大人びている。
「い、いいよ。夏日さんが座って」
身振りでどうぞと示すと、夏日はその場に立ったまま私を見つめる。
「驚きました」
「え?」
「あなたが普通の人で」
晴が普段どんな人付き合いをしているのかを思って、遠い目をしてしまった。
おもむろに夏日がベッドに歩み寄り、振り返って私を見る。
近寄ってもいいという意味だと理解して、夏日の隣に並んだ。
近付いて見下ろした顔は、紛れもなく、晴の顔だった。
「姉さんは眠ってます。息をしてはいるんですが、意識が戻らないんです」
知らず、息を詰めていた。
もしかしたら、晴の意識はもう戻らないのかもしれない。
だからこそ、生霊としての晴が現れたのだとしたら。
眠る晴の顔を見ていたら、そんな不穏な思いがまとわりつく。
振り払うように、私は夏日に水を向ける。
「何があったとか、聞いても?」
夏日はかすかに顎を引く。
「今日の三時頃、姉さんが公園で路上ライブの配信をしていた時のことだそうです。
公園近くで行われていた建物工事の現場から、建材が姉さんの真上に落ちた、とのことで。当時は強風注意報が出ていたそうなので、おそらく原因は風でしょう。
樹木に守られたおかげで外傷はそれほどでもないんですが、衝撃を頭に受けてしまって」
「怪我をしたのは、晴だけ……?」
「はい。観客がそれほどいなかったのが、不幸中の幸いでした」
まるで心の中で練習したみたいに、夏日の答えは淀みなかった。
生真面目な子なのだろう。
声が掠れていて、気の毒になるほど細かった。
すると夏日は、私が心配していることに気がついたのか、小さく笑顔を作る。
「本人、普段から雨女だって言ってるんですけど。鉄骨まで降らせることないですよね」
少しだけ笑いを返すと、夏日もほっとした顔をした。
冗談を言ったのは敢えてだろう。晴の話どおり、本当にしっかりした子だった。
ともかくこれで、はっきりした。
晴は嘘をついていなかった。本当に、死んでしまうような事故に遭っていた。
つまり、晴はやはり、この世に二人いる。
どういう理屈かはわからないけれど確かなことで、頭がおかしくなりそうだ……というわけでは、全然なかった。
今晩は散々おかしな現象に出くわしているから、感覚が麻痺している。それくらい起きたって不思議じゃないな、とすら思ってしまっていた。
考えていると、夏日が頭を下げていて、軽く慌てた。
「お見舞いに来てくださって、ありがとうございました」
「あ、う、ううん。こっちこそごめんね手ぶらで」
それきり何を言うかも分からず、規則正しく刻まれる電子音だけが病室に満ちた。
私は軽く振り返って、病室のスライドドアを見る。
ドアの向こうには晴がいるはずだけれど、今入ってこられるのはまずそうだ。
夏日は今のところ落ち着いているように見える。ただ、ショックを受けているのは間違いない。
こんな状況でぴんぴんしている二人目の晴を見てしまったら、この神経質そうな子は卒倒してしまいそうだ。
なんとか二人目の晴が病室に入ってこないようにしようとやきもきしていると、夏日が呟いた。
「あなたは晴と同じ種類の人の気がしませんね」
どきりとして、肩がびくりと揺れた。
「失礼ですが、ちゃんと地に足がついている感じがする方というか。だから不思議です。こんな深夜にお見舞いに来てくださったのはどうしてです?」
夏日は、もしかして、と目を眇める。
「姉さんにお金を貸した人だったりします? 私が建て替えて返しますから、幾ら貸したか言ってください」
「ち、違うよ。私はそんなんじゃないから」
晴が借金を返せなくなるかもと踏んで取り立てに来た人間、と解釈されたらしい。
慌てて否定しなければ、夏日は本当に財布を取り出しかねなそうだった。
「というか、晴ってそんなにお金に困ってたの?」
「困っていた、といえばそうだと思いますけど……」
夏日は言いづらそうにして、言葉を切った。
家族の問題を、うかつに他人に言えはしないだろう。気持ちは分かった。
だから踏み込むべきか少し迷った。
口にしようと決めたのは、何かが喉につかえたように苦しそうにしている夏日の顔を見てしまったから。
「もしかして逆? 晴の方が家にお金を入れてたとか?」
夏日が口を半分開けて驚いたように私を見た。
「本人から、結構しっかりバイトしてるって話、聞いたから。もしかしたらそうなのかな、って」
「……っ」
夏日はパイプ椅子に力なく腰を下ろすと、足を引き上げて座面にのせた。
揃えた膝を両腕で抱えて、その間に頭を埋め、丸くなってしまう。
声をかけられないでいると、夏日が呻くように言う。
「私のせいなんです」
「夏日さんの……?」
はい、と夏日は声を上擦らせて言う。
「私、絵を描くんです。それで将来は芸術系の大学に行きたいと思ってて。でも、家には予備校にだって行くお金もないし、やっぱり無理だって諦めてたんです。ところがそれを知った姉さんが、いきなり高校を辞めて働くって言い出して」
夏日の声が、憤りを示すように熱を帯びる。
「そんなことやめてって言ったのに、聞かなくて。路上ライブをしはじめたのもそれからなんです。本当は姉さんだってちゃんと音楽を学びたかったはずなのに。私はこれで良いんだって、そればっかり子供みたいに言い張って」
つまらないから高校を辞めた。
晴の言葉を思い出して、口の中が苦くなった。
「だからある時に、けんかしたんです。そこでつい、『姉さんはいつまでもそんなんでやってけるわけない』って、私が言ってしまって。そんなことを言えば、余計に姉さんが頑張ろうとするだけなのに。それが分かってたはずなのに。私は、」
自分を罰するように、腕を掴んだ夏日の手が、ぎゅうっと皮膚に食い込む。
ますます激しく、血をにじませる強さで、夏日が吐き出す。
「本気で、止めるべきでした。もう夢なんていらないって、言うべきでした」
ゆっくりと夏日が顔を上げる。
濡れた頬を雫が滑って、しんと冷たい光を描く。
その口元に、壊れたような笑顔がゆっくりと宿る。
ふと降りた沈黙の中に、ぽろりと夏日の言葉が溢れた。
「私は、姉さんを殺したも同然です」
夏日の苦悩を、私は解いてはあげられない。
どんな言葉も心に届くなんて思えない。
偉そうに池田さんのことを断罪しようとして、私は失敗した。
同じように、苦しんでいる人を前にしても私は、なんの助けにもなれないのかもしれない。
それでも。
「……早川、さん?」
私は、椅子の上で丸くなった夏日の背中に両腕を回して、そっと手で撫でた。
ただそばにいる。
きっと、それが一番、私を救ってくれたこと。
菜穂が私のそばにいてくれたように。
だから、それだけ。
「……っ」
震える夏日の背中を何度も撫でて、私は思った。
晴。
あなたは夏日をこのままにしたら駄目だよ。
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