第25話 クズでも仰ぐ空は青
晴の話では、公園からほど近くに総合病院があるから、もし自分が運び込まれたとしたらまずそこで間違いないだろうという話だった。
晴は気遣って「嫌だったら付いてこなくても良いよ」と言ってくれた。
もし晴が本当に死んでいたとしたのなら、見たくないものを見ることになるからかもしれない。
けれど、私は構わないと答えた。
本当は、晴に付き合う必要なんてないと分かっていた。
けれど晴を無視したいとは、思わない。
たぶんあのバスに乗る前までの私であれば、無視していた。鼻で笑いさえしたかもしれない。
今は違う。知りたい、と思えていた。
人のことを、ちゃんと知りたい。
あすちゃんに。佐伯先生に。池田さんに。はくちゃんに。
出会ってほんの少しだけ世の中の広さを知って、あらためて振り返ると、なんだか自分の絶望がちっぽけに見えていた。
何も私は、私の絶望で死ぬわけじゃない。
そんなことを思えたのは初めてだった。何より救われた気がした。
だから、晴のことを知りたい。それは、自分のためでもある。
公園の噴水前に立っていた時計塔が夜の十二時を回っていることを確かめ、私は晴に続いて再び夜の街へと繰り出した。
「……晴の話を頭から信じたわけじゃないんだけどさ」
隣を歩く私が切り出すと、晴はまだ少し涙の気配が残る目元を向けてくる。
「もし本当のことだとしたら、晴は、平気なの?」
その目がもう答えを語っている気がしたけれど、晴は私の推測を裏切るように口角をほんの少しもち上げる。
「ほっとしてもいるかな」
「どういうこと……?」
「あたし家族の中でお荷物だったから」
苦笑交じりの晴の顔を見たら、つきん、と針で刺されたような痛みが胸に走った。
「頭の出来悪いし。運動音痴だし。飽き性だし。片付け出来ないし。料理もダメだし。友達から借りたお金も返せないし」
一つの語句を歌うように紡ぎながら、指を一本ずつ立てていく。
声はあくまでも明るくおどけるように。
「取り柄といえば歌うことくらい。それだって、別に一流ってわけでもないし、自分の生活を全部賭けられるほどのことじゃない」
「もしかして、他にも仕事してるの?」
「バイトをいくつかね。すぐクビになっちゃうけど。不真面目だとか、生意気だとか、遅刻しすぎだとか」
晴は大げさに肩をすくめて言う。
「やりたいことはまだまだあるよ。でも私、どこまでいってもクズだし」
聞いていて、あまりいい気がしなかった。
お荷物はいなくなっていいんだったら私だっていなくなったって良いことになる。
勉強を捨て、周りをかえりみず、家を飛び出した素行不良の私は、お荷物以外の何者でもない。
足を止めた。晴が気付いて、私を振り返る。
「自分が周りと比べて不出来な人間だからって、いなくなって良い理由に、なる?」
晴が眉を上げた。
「どんな人間だろうと、その人の人生はその人だけの、かけがえのないものじゃないの?」
家族から見てお荷物だろうと、なんだろうと。
自分が自分の人生をどう思うかが、大切なんじゃないのか。
だって、誰かの評価や価値基準に自分を位置づけて生きていたら地獄を見る。
自分だけは、自分を認めてあげるべきだ。
そこまで考えて、背中が薄ら寒くなる。
──自分を認める、だって?
そんなこと、出来るわけない。
自分が自分であることを誇りに思えるのなら、苦労しない。
いつもそうだ。頑張って努力をしても、手が届かなくて結局、妥協の内に終わる。満足したふりをし続ける。そういうことをこの先もきっと繰り返す。飽きもせずに。
そんな自分を、認めてあげられるわけがない。
私の言葉は笑ってしまうくらい欺瞞まみれだ。
「……ごめん。やっぱ忘れて」
私を見つめる晴の目が、行き過ぎる車のヘッドライトを映して濡れたように光る。
酔客が、足を止めて向かい合う私達を興味深そうに眺めながらすれ違う。
深夜の往来で、何を言ってるんだろう。
急いで歩き出すと、隣に追いついてきた晴がおどけるように私の背中を叩いた。
「夕って良いやつなんだね」
「もう忘れてって」
「えー何照れてるの? かわいいとこもあるじゃん」
人懐っこい感じのする少年みたいな声でけらけら笑う。
笑いを引き取ってから、晴はふっと明るく言った。
「夕の言う通りだよ」
「だから……」
「いや、ほんとそう思ったから。言わせてよ」
晴はふざけた気配をしまい込み、空を見上げた。
打ち上げられた街明かりにぼやけた夜空には、いつのまにか雲がせり出してきている。
「うち母子家庭なんだけどさ。二つ下の妹がいるの」
雲の向こうを透かし見るように、晴は目を眇める。
「ろくでなしのあたしよりすっごく出来る妹でね。ママ帰って来るの夜遅いから、家事をほとんど全部やってくれてる。あたしが手伝おうとすると『お姉ちゃんが手出すと駄目になるからやんないで!』って叱るの。もはや第二のママだよね。
だけど今は、喧嘩したっきりろくに顔合わせてなくて」
見上げていた視線を落とすと、私に目を合わせる。
「実を言うとさ、夕と菜穂のことが気にかかったのって、昔の仲が良かったあたし達に似てるなあって思ったからでもあるんだ」
その言葉で私が思い出すのは、お姉ちゃんのこと。
最初のお母さんが家を出ていく前まで、私達は仲が良かった。
朝、並んで登校をして。一緒にお風呂に入って。一つの布団で眠っていた。
今はそんなこと、馬鹿らしいって、思ってしまう。
「本当は、ほっとした以上に、心配してる。妹のこと」
あたしに心配されても余計なお世話って感じだろうけどね。
そう付け足して、晴は私の先を歩く。
辿り着いた病院は、正面が大きな回転扉になっていて、今はその動きを止めていた。夜間出入り口がその脇に設けられていて、どうやらそこを通るしかなさそうだ。
出入り口は駅の改札口のように脇に警備員さんの事務所が併設されている。そこで面会の手続きを行うらしい。
「あたしに任せて」
言われるがまま、晴のあとに続く。
扉を開くと、詰め所の中でモニターを睨んでいた警備員さんが胡乱げな眼差しを向けてきた。
「ごめんなさい。面会にきた者なんですが」
「ご家族の方ですか」
警備員さんが後ろの私を見てきた。心臓に悪い。
晴はまったく動揺を見せずに「はい」とうなずく。
「病室は分かります?」
「あー、ごめんなさい。ちょっと忘れちゃって。三枝晴っていうんですけど」
すると、警備員さんがどこかに電話をかけはじめた。
しばらくして、「……わかりました」と受話器を置く。
西病棟五階のナースステーションに行くように伝えられ、その通りに赴くと、病室を伝えられた。
ナースステーションを辞したところで、晴が小声で言う。
「……死んだ、ってわけじゃなさそうだね。良かった」
晴の病室を告げた看護婦さんは、控えめながら笑っていた。
もし晴が死んでしまっていたら、そんな表情は絶対に浮かべない。
「……良くはないでしょ」
「……はは。そだね」
ともかくこれで、晴の話がまるきり嘘ではないということが証明されてしまったことになる。
今ここにいる晴が実は別人で、晴の名前を騙っているという可能性も残るけれど、初対面の私にそこまでする意味があるとは思えない。
ということは、やはり晴は生霊か何かであるということになる。
だからといって、いきなり恐怖を覚えるということはなかった。
なにせ晴は全然幽霊じみていない。
でも、本人はそういうものに対する免疫がなかったらしい。
「……お願いがあるんだけどさ」
病室の前にたどり着いたところで、晴が気まずそうに言った。
「……先に、様子を見てきてくれない?」
晴の手は震えていた。
恐ろしいのだろう。私だって怖くないといえば嘘になる。
この扉の先に、晴のもう一つの体があるって?
信じられない。
でも、それ以上に、見てみたいという気持ちも否定できない。
いつの間に私は、そんな勇気のある人間になったのか。
きっと、夜がそうさせている。
夜には、私の知り得ない何かが起きる。
今までも。そしてこれからも。
一つ大きく深呼吸をして、私は告げる。
「……分かった。見てくるよ」
ノックをしたけれど、返事はなかった。
スライドドアを引き開けて、中へ。
照明は落ちていて、薄暗かった。
壁や天井、床に至るまでが無機質に白く、部屋の奥行きを感じさせない。
ぴ、ぴ、と連続する電子音が耳に届くと同時に消毒の匂いが鼻を掠める。
ベッドには、頭を包帯で覆われた誰かが横たわっていた。
意識はないのか、眠っているのか。こちらを見ることはない。
「晴?」
声をかけても、返事は返ってこない。
その時、ベッドの傍らが動いた。
誰かがパイプ椅子に座っていたのだ。その人が、頭をもたげて私を見た。
晴に良く似た顔立ちの女の子。
「……あなた、は?」
晴の妹だった。
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