第28話 晴⑦

「ひとまずバスに戻ろうか」


 晴はそう言って、ソファに座ったまま給水器横のゴミ箱に紙コップを放り込んだ。


「運転手さんに、あたしの今のことについて尋ねないとね」


「……それは無理だと思う。あの人、私が話しかけても何も答えてくれないから」


「え、そうなんだ。それは困るなあ」


「ただ──」


 運転手さんは私や佐伯先生を無視し、菜穂にだけ受け答えをしていた。

 単なる気まぐれだと思っていたけれど、今となってはそんな簡単な理由で片付けていいのか疑問が残る。私と菜穂で待遇の差を生んだ明確な何かがあるのだと、考えないわけにはいかない。

 立ち上がった晴が、私の手からぐしゃぐしゃになった紙コップを取って言った。


「菜穂っちは特別なんだね?」


 私はうなずいた。

 晴が、ぽんと私の頭に手を置く。


「あの子は確かに、なんか闇を抱えてそうだよねぇ。どす黒いやつ」

 

 私は単に、菜穂は家で何か嫌なことがあって帰りたくなかっただけだと思っていた。

 強い不安感に、下腹を硬い何かで押されているように錯覚する。

 こらえるためにぐっと奥歯を噛み、うつむいた私の頭を晴の手が撫でた。

 晴は黙って、私の言葉を待ってくれた。

 絞り出すように、私は言った。


「……私も分かってたよ。菜穂には、何か言えないことがあるんだろうって」


 でも、どうしたのか、って言えなかった。

 いや、言わなかった。


「ずっと、遠くに行ってしまいそうな気がしてた。してたのに、私は、」


 菜穂の笑顔や、言葉、優しさに、後先を考えないあてどなさを感じていた。

 言いようのない危うさがあることを、本当は分かっていた。 

 でも、言い出せなかった。


「こわかったんだ」


 今が壊れてしまいそうだったから。

 何度も思う。ここまで来れたのは菜穂がいたからだ。

 なのに、その菜穂はもう終わりのことを考えている。

 そのズレが心に怯えを生んだ。

 ──菜穂は、私と同じ気持ちじゃない。

 そんなの普通は当たり前のこと。

 でも、この夜の間だけは同じだって思っていた。

 私だけだった。


「伝えたほうがいいよ」


 顔を上げると、晴が笑いかけていた。

 なぜか、昔に見た、私のお姉ちゃんの面影を見た気がした。


「不安や心配があるのなら。そうしないと私みたいになっちゃうからね」


 最後の方は、自嘲しながら、少しふざけた声音だった。


「夏日さんには、会いに行くの?」


「あの子、怖がりだからなあ。できれば驚かせたくないけど。……もちろん、このままにするつもりないよ」


 晴は夜景を映すガラス張りの窓に近付いて言う。


「夕は先にバスに戻ってて。そしたら、また公園に集合ね」


「公園……? 晴はこれからどこかに行くの?」


「ちょっとね」


 菜穂ちゃんも連れてきてよ、と付け足して、晴は休憩室を出ていく。

 

 

 




 病院から出て五分も経たないうちにバスのある場所にたどり着いた。

 路肩に停車しているその車体を認めた途端、ほっとしたような、胸がざわつくような、相反する気持ちが胸の中にせめぎ合う。

 乗車口からステップを登り、車内に乗り込む。後部座席に座っていた菜穂が気がついて目を上げた。膝の上には相変わらずはくちゃんが丸くなっている。

 

「おかえり。……晴さんは?」


「一旦、別れた。でも、菜穂と一緒に公園に来てって」


「公園?」


「そう。私にも晴が何考えてるのか良くわかんないんだけど」


 菜穂がきょとんとして尋ねてくる。


「確かめた、んだよね? その、晴さんは……」


「うん。病院に行って、この目で見てきた」


 菜穂が少し身を縮めたように見えた。


「晴は死んでたわけじゃなかった。けど、もう一つの体があった。たぶん、元々の方がね」


 私は前方の運転手席を見る。

 今、バスのエンジンは切られている。エンジンの騒音がないぶん声が通るから、距離があるとはいえ声が聞こえていないということは無いはずだ。それでも運転手さんの反応はない。

 目を戻すと、菜穂は「そっか」とだけ言った。

 そんなふうに一言で済ませられることじゃない。

 私の言っていることは、支離滅裂もいいところだ。まるで現実的じゃない。

 けれど菜穂は、そんなことはとっくに受け入れているとでもいうように自然体でいる。

 私はこみ上げてきた言葉を飲み込んで告げた。


「外に出ようよ」


 私の目を一度見て、菜穂はゆっくりとうなずいた。

「ごめんね」と菜穂は小声で断って、はくちゃんの体を座面に降ろす。不平の声を上げたはくちゃんが私達を見上げて、興味を失ったようにその場で再び丸くなる。

 バスの外に出て、街路樹の並木道を歩く。夏のぬるい風が、軽く火照った頬を撫でる。

 夜の十二時を回ったというのに、都市の闇はぼんやりとしている。それでも菜穂から三歩も離れると、お互いの輪郭が溶けて見えるくらいには深い闇だ。

 隣に並んでいる菜穂の手が遠かった。

 伸ばそうと思えば届くはずなのに、今は少しも触れられる気がしない。

 不安感は消える気配がなく、重しとなって私にのしかかっている。


 音楽が聴きたいと、ふいに思う。


 いつも私を、耐え難い現実や、辛い何かから心を守ってくれた。

 つらい現実に一つ出くわすたびに、私は一つぶん音楽の世界に心を沈めた。

 それが逃避でしかないと分かっていた。すべてを棚上げにした現実逃避だと。

 現実は変わってはくれない。私達は、思い出や美しい旋律の中に生きることなんて出来ない。どこまでも地続きの現実を、とぼとぼと歩いている。

 公園に入った。人工的に作られた小川のたもとに屋根のついた東屋を見つけて、そこを目指す。

 私がベンチに腰掛けると、菜穂は隣に座る。

 何から話したものか迷う。色んなことがありすぎた。

 悩んで、口を開こうとしたところで、菜穂が先んじた。


「ごめんね」


「……どうして?」


 謝罪の理由を尋ねると、菜穂が苦く笑う。


「さっきは、いきなりで驚かせちゃったから」


 晴に連れられてバスから離れる直前、菜穂は私に帰らなければいけないと告げた。

 そして、私にキスをしようとした。


「それに、わがまま言ってバスに残ったし」


「あれくらい、わがままに入らないよ」


 菜穂はうつむいた。栗色の髪の房が、はらり、と垂れ落ちる。

 私は息を吸った。お守りにするみたいに、さっき晴からかけられた言葉を思い出した。

『伝えたほうがいいよ』


「菜穂は、」


 声が掠れた。短い言葉なのに、息が続かない。それほど、私の胸は不安に強く圧迫されている。

 私は、あえぐように続けた。


「菜穂は、いなくなったりしないよね?」


 うつむいていた菜穂の顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 いつもの穏やかな微笑が浮かんでいる。

 菜穂は私の言葉に、否定も肯定もしなかった。


「ゆうちゃんが終点に着いて、あの時のことを思い出したら、ぜんぶ話すよ」


 私の終点?

 あの時のこと?

 私が尋ねても菜穂は答えてはくれない。

 その代わりに、ゆっくりと手を近付けてくる。

 指先がやさしく、いとおしむように私の頬を撫でる。

 思わず、その手首を握る。

 菜穂はそっと目を瞑った。

 

「運転手さんにお願いしたんだ。海に行ってくれませんか、って」


「……それで、なんて?」


「いいですよ、って。だから、次の目的地は海」


 ゆうちゃんの家出は、そこで終わり。

 菜穂は静かに言って私から離れる。

 私が握りしめていたはずの手首は、いつのまにか解かれている。

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